困
「こまる」と言う漢字を書いて、漢字の[普遍的常識]について話します。

「困る」と書き、次に困るという字に成った、その理由を推理することにします。どうしてこの字が、困るになったか?です。

就職活動が思うようにいかない時、仕事で難題に直面した時や、人生をどうクリエートしようかと悩んだ時など、殆どの人はうつむきかがんになったり、気難しい表情だったりで、まさに困った顔をしています。

そして他人から見ると「暗い」印象をもたれてしまいがちです。漢字は数千年の歴史を持った言葉であり、デザインです。日本に住んでいる以上、漢字は日常生活に溶け込み、我々の脳の思考も日本語と漢字で動いています。日頃、漢字を何気なく使っています。誰が何時作ったかより何で、どうして、これで流石(さすが)と読むのだろうかとか、どうして「困る」がこの文字でなくてはいけないのかとか、「困る」の「口」の中に「木」でなくて「人」を入れた方が今らしいのではないのかとか。

(「囚」では囚人になってしまいます、かえって何かにとらえられている感じが今風かもしれません。)

 

数年前、NHKでも故白川静漢字博士の漢字の新事実について放送がありました、ご覧になった方も多いと思います。本にもなっています。(「知るを楽しむ」NHK出版、写真)

1990年代初頭に尊敬する故安岡正篤(やすおか まさひろ)の書いた、またはテープの文字起し本「先哲講座」(竹井出版、写真)で、その白川静の存在を知りビックリした記憶と重なりました。

この中に白川静の漢字の新説(当時としては)が引用されています。

「口」を使った、漢字を数多く目にします。「困る」もその一つです。

「困る」の周りの「口」という字は「口」(くち)ではなかったのです。

これは白川静の「漢字の世界Ⅰ」(平凡社)p57によれば「サイは祝詞(のりと)を意味する」(右図参照)とあり「サイ」と読むそうです。サイを使った漢字が数多く有ると指摘しています。

以下は安岡正篤と白川静を読んで、すべてではありませんが私なりに普段使う漢字を自分流に勝手に解釈した話です。

困る図解
「困る」はサイの中に木が閉じ込められている状態が「困る」です。木は太陽の光によって成長します。

木はサイに入れられ、光が当らない四方ふさがりで成長を妨げられて暗い状態です、木のまわりも暗く途方に暮れて弱り果て木自身も困って暗くなるのです。確かにそうです困った人は暗く見える人が多いようです。

困って暗いから先が見えないようになり、夢もなくなりそうになるのは、周りが見えないほどに暗くなるからではないでしょうか。

太陽の光は、木は勿論のこと人間にも必要なわけです。

太陽の光は「知恵」であり、その熱は「愛」です。

そして木は花や実を成らせ、人間は未来に期待し、光にあたり知恵を付け、その熱で愛を育むことで人間も夢をもって成長していくのです。夢の実現に向かって進めば、きっと夢は叶うと言われています。

 

夢を叶えるの「叶」はどうしてこの字になったのでしょうか。正解は2つの答えで満点です。

1つは夢をもてば、その夢を実現したい、成功させたいと自己暗示にかけるように口に出し、紙に何回も書き続ければ、努力し叶うということです。志せば欲しい情報は向こうから来るぐらいの奇跡に近い経験をすると思います。簡単に言えば「口で十回、唱えれば」夢は実現するのです、回数の問題ではありません、口で千回だと「舌」が疲れてしまうからかもしれません。

2つ目は、相談相手としてそれぞれの専門分野の詳しい人に、相応しい十人くらいの人に、自分の夢を相談すれば十人それぞれ、多面的に、違った角度で夢の問題点を指摘してくれます、その問題点を解決すれば夢は叶うわけです。くれぐれも人の夢だから儚(はかな)いと想わないでください。

 

漢字はデッサンであり、デザインなのです。何千年も使われてきた漢字は世界で中国と日本だけでも、人口比では13億人と1億2,3千万人で合わせて、世界人口66億人の5人に一人は漢字を使っていることになります。(中語の華僑と言われる人々は全世界で4,5千万人はいるとされていますが、比較の数には入れていません。)人生をデザインするのも、我々は文字や漢字をもち、頭の中のすべてではないにしても基本は文字や漢字という言葉で認識し、思い、感じているのです。

 

「国」と言う概念も薄れてきた近頃、日頃ニュースや政治家、霞ヶ関の官僚が使う「国民」、「民間」など「民」自体が隷属する人を指し、支配されている人々のことに使われているようです。知ってか知らずしてかは、はかりしれません。先にご紹介した白川静の「漢字の世界Ⅰ」(平凡社)のp247には、「民はいわば総体的所有の関係において服従するものである。」と書かれています。同じく白川静の「漢字」(岩波新書)p72にも同等の記述が有ります。日本国憲法の英語訳には「民」を表す言葉は無りません。

Citizen(国民)ではなくPeople(人々)とあります。どこかの国の「人民による、人民のための、人民の…」と「民」と日本語に訳された時点で支配する側と、される側を区別し意識していると記憶すべきです。

 

本当に人間は他人のことを思って、困っている人を助け、それを自身の美徳、陰徳や社会貢献として満足を得られるようになるのでしょうか?「国民」とか「民間」とか言っている支配階級と思ってはいないかもしれない、その人々にその意識はあるのでしょうか?それが「国」の概念なら新しい集団が自然発生的に芽吹く時も近いのではないでしょうか。既に芸術の世界では、クリエーティヴの世界では、国の概念を超えたものが多いと感じます、そしてそれこそ、その証明ではないのかと思えます。

これから、世界を変えていけるのは、人民でもなく、国民でもなく、国境を越えた「人々」であり、「皆な」であり、クリエーティヴィティのある「人達」でなければならないと「漢字」は教えているがするのは私だけでは無いと思いたいです。

普段何気なく使っている漢字も、ちょっと意識して良書を読めば普遍的な答えは出てきます。漢字を正しく理解し使うことこそ普遍的常識を識ったことになり、根本に普遍的常識をすえて、すべての芸術活動において、創作活動において、クリエーターに、ぶれの無い多大なる良い影響を与えてくれると想います。

Pocket
LINEで送る