●5,6年生で作る「花」

春の運動会シーズンが終わり、関東地方は梅雨まっただ中です。マッシー通信で運動会の種目、組み体操を取り上げてから2年。かつて子ども達の通う小学校でも6段のピラミッドが行われていましたが、今は姿を消しています。

「危険だからこそ達成感がある、感動する」という組み体操に対する風潮はかなりなくなりました。まずは親として、自分の子どもがとんでもなく危険な目に合わずにすんでホッとしているのが正直な気持ちです。
埼玉県の小学校、今年の運動会でも組み体操そのものは行われました。ピラミッドと呼ばれる技もありましたが3段まで。子ども達が積み上がる俵型というカタチではなく、やぐら型というカタチです。二段目の子どもは足を地面につけています。一番下の段の子どもへの負荷が少なくなりますし、安定感が増します。曲に合わせて下の段の子どもは膝を立てたりしゃがんだり、一番上の子どもは二段目の子どもに飛び乗ったり飛び降りたりして、ピラミッド全体が立ち上がったり畳まれたりしているように見せていました。私は子どもの頃から体が大きかったのでピラミッドでは一番下でした。それも負荷のかかる俵型。私にとって組み体操の思い出は膝に食い込む砂や砂利の痛さです。
5年生と6年生あわせて4クラスがひとつの大きな「花」を表現する技も披露されました。5年生は柔軟性を生かしたウェーブを作り、6年生は中心の花の部分を担当。土台の上で6人が音楽に合わせて手を広げゆったりと踊ります。立っている子どもの足元から地面までは1メートルくらいです。土台を担当する子どもや上に乗って踊る子どもは、基本的に体重で決めたそうですが、実際に技をやってみてバランスを崩してしまいがちな子どもは、上ではなく土台を担当してみて様子を見るなど、それぞれの特性に合わせて担当する場所を決めていったそうです。
「花」の録画を何度か見返して、先生が土台のふもとに小さくしゃがみこんでいたことに初めて気づきました。目立たないように、でもきちんと見守ってくれていることを知り、ありがたくて今更ながら涙が出ました。
最後の技は「天空の城」。今回の組み体操、一番の大技です。一番下の土台を4人が担当し、やぐらのように組み、一番上に1人が立ちます。立っている子どもの足元から地面までは1メートル50センチくらい。花の技もそうですが、高さを気にするのには理由があります。大人は高所で作業する場合、高さ2メートル以上であれば、事業者は労働者に対して柵を設けたり命綱をつけさせたり安全対策を施す義務があります。あくまで大人の話しですが、子どもならなおさら安全対策を施す必要があることは言うまでもありません。
最後は5年生と6年生がクラスごとに一礼したあと、お揃いのおどけたポーズで締めくくっていました。大人が作り上げた感動ショーではない、何か子ども達の主体性を感じられた一瞬でした。
これまで何段ものピラミッドや高いタワーを見慣れてきた人には物足りなく感じるかもしれませんが、充分です、素晴らしいです。子ども達、本当に頑張ってた。お互いの安全を考え、お互いを尊重しながら。
人を大切にする、自分のことも大切にする、子どものうちから少しずつ経験を通して理解を重ねるから、社会にまだ見ぬ世界に、安心して出て行けるんじゃないかと思います。そして理不尽に遭遇したときに自分を守る手段をとれるのではないかと思います。かつての巨大ピラミッドからは、人と自分を大切にするという経験は得られないのではと感じます。
5月の連休明けから連日のように取り上げられてきた日大アメフト部の問題。1ヶ月が経ちました。悪質タックルをした学生は、他人を傷つけてでも何か特別なことをしなければ認めてもらえないという気持ちになってしまったのではないかと想像します。(反則の指示があったのかどうかはこれから解明されるでしょう)まるで高いピラミッドを成功させなければ、拍手を贈ってもらえないのではないか認めてもらえないのではないかと、大人の誤った指導によって考えてしまう子どものように。
むしろ小学生のほうが大人と話し合って様々な問題に向き合ってるように思います。
大学生だからこそ、大人が守ることから見落とされてしまっているのかもしれません。大学生は、未成年も成人も入り交じっているんですね。
それにしてもあの会見のネクタイの色で日大のカラーがピンクだと初めて知りました。そういえば箱根駅伝の襷もピンクでしたね。(今年は出場していなかったので尚更気づけなかったのかも)こんなことがきっかけで日大のあんなことやこんなことを色々知ることになろうとは。あんなとかこんなとか、あやふやな表現ばかりですみません。起こっていることがあまりにも闇だらけで何をどう表現していいものやら。
そんななか、日芸学部長が日芸のサイトに投稿したコメントは嬉しかったです。OB、OGもSNSでシェアしていました。勝手に要約させていただくと「オレら、ニチゲー」(あくまでも個人の要約です)
話しを組み体操に戻します。過去のコラムにも書きましたが、子どもは走っているだけで、それこそ普通に息をしているだけで、生きているだけで感動ものだと改めて思います。組み体操を「続ける」のならば、これからも話し合って考えていく。そこに子どもと大人の乖離(かいり)があってはならないのです。
「揺れる」「変わる」「考える」組み体操について書いた過去3つのコラムも合わせてご覧頂けると幸いです。
2018年6月12日
増子瑞穂

●3段のピラミッド

揺れる組み体操 連載147

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