胡桃脳は種

実り多き秋も深まり美味しい食材が味覚や嗅覚、視覚を楽しませています。

私は、非日常的で格別な氣分を殻つき胡桃(くるみ)で味わうのが好きです。

殻を割りながら上手く形をとどめた実が取れた時には口に入れる手を休め胡桃の複雑で入り混んだ面白い形に見入ってしまいます。

この胡桃の実を見るたびに人間の脳の形を憶い出します。

銀河系の渦巻きと台風の渦巻きは、大きさは異なっても相似形であるように胡桃と人間の脳の形も相似形に思えるのは私だけではないと想いたいです。胡桃の種もそうであるように脳は全ての情報が集り記憶という蓄積が出来る胡桃に似た種だと想えるのです。子孫繁栄の種ではなく、その脳の持ち主の固体を決定し、その個体を成長させる種と思うのです。植物の殆どの発芽は「根っこ」から出て次に地表に葉を出します。胡桃も固い殻を割って根を先に出し、次に葉を出し実りへと成長します。

 

種である脳が発芽に必要な「養分」を何処から吸上げるのでしょうか。

地中の種発芽
脳は人間の体全体の「種」です、実るための葉や幹が身体です、脳が集約している感覚端末である出先器官の五感が「根っこ」です。「根っこ」は五感によって「情報」という養分を吸上げるセンサーです。

感覚器官である五感によって吸上げ・センスされて「感じた」情報は脳にインプットされ認識された瞬間、第六感によってピンっとひらめいたり、もやもやしていたものが晴れたり、自分なりの理解になって記憶され、やがて目覚める、その覚(さと)り醒(さ)めることが「覚醒」です。

それぞれ覚醒された情報は第六感との、さらなる掛算による融合によって眼は視覚に、耳は聴覚に、皮膚は触覚に、舌は味覚に、鼻は嗅覚になります。眼で例えるなら「観察力」が増すという理解になります。

五感であるセンサーを研(みが)くことで世界が違って見えてくるわけです。第六感、それ自体もある意味ではセンサーです。第六感の守備範囲は、「天」や「心」「魂」、「良心」のような眼には見えないものをセンスするのが得意なのです。

 

脳の中では五感覚醒情報に第六感を掛算トッピングした融合情報が「思い」、「発想」、「アイディア」、「ヴィジョン」となります。

 

第六感を合わせた六つのセンサーの組み合わせによって「妄念」や「心の垢(あか)」である「煩悩」が生まれるといわれています。煩悩は「陰」であり「思い」、「発想」、「アイディア」、「ヴィジョン」は、「陽」です。またそれらすべてが種と根っこである脳の産物です。

 

「創造」とは脳からの感覚器官へのアウトプットです、その「陽」の情報である、思い、発想、アイディア・ヴィジョンを脳から各五感に伝達して、こしらえたものが「創造物」です。

一例をあげれば、描けば絵画や映画に、五線譜に音符を歌わせれば音楽に、書けば物語やシナリオに、台詞と動作で演劇に、花をアートすればいけばなに等、人の数だけ創造物ができることになります。

多くの人の心を引きつけ感動させることによってアート・芸術が成立します。

芸術の「藝」という字は、女人がしゃがんで両手で植物を育てている姿から出来ていると昔の漢和辞典巻末は教えてくれたことを憶(おも)いださせてくれます。その育てられる植物は喜んで自分の根っこから必要な養分を吸上げすくすくと育ち、お礼に花開き、秋に実り、女人に収穫をもたらしてくれることになります。そこに相乗効果がうまれ縁がうまれ刺激によって触発され、さらに発展してさらなる創造が繰り返されていく、「陽」が「陽」をうみ続けるプラスの連鎖になっていくことを藝は意味していると想います。その創造の運動が文化となって受け継がれていくと感じるのです。

 

自分だけの中に仕舞っておく覚醒情報はアートになりません。

他の人と共有できる覚醒情報のホトバシリとしての「創造物」があってこそ、情報の一元化がおこなわれ共通言語化するに等しい状況が出来上がります。それが共感、共鳴となり感動や発見による新たな展開に繋がっていきます。「想っていた」では他人には通じませんし自分自身としてもまとめなければ意味がありません。

成長人間は相似〈人間は相似〉
自分のセンサーを研ぎ澄まし、第六感をすばやく融合させる脳をいかに鍛えるかが大切であると理解できます。自分の脳にあるだけの覚醒情報から、外に露呈させる共有情報としての共通言語になる「創造物」が必要になるのです。脳の中だけに「ヴィジョン」があるといっても外に出す行為である「ヴィジュアライズ」させなければ空理空論と同じで他人と感動も共有できず感動の連鎖にもつながりません。独りよがりの創造・芸術は無いのだと覚醒して自分らしさである「独創性」を養うことでクリエーターを自負し、自身を恥じない存在にさせることが出来るのです。

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