「風の中のスーバルゥ・・・、砂の中の銀河~」プロローグ。この曲が流れ、映像が重なる。その何篇かを見る事が出来た。
すっかりその曲を憶えてしまったようだ。私も勇気ずけらる曲だった!敗戦の廃墟から、世界屈指の先端的、工業先進国としての地歩を創り、優れた技術、先端製品をはじめて、創り上げた人、技術者達の苦闘のドラマ・・・。
直面する障害を乗り越え、挑戦する人々の姿に、発明や開発の現実に感動があった。
すっかり自信を喪失している我が国。その起点に立ち返り、勇気を取り戻したいものだ!
その物語は、富士通の「コンピューター」、カシオの「デジタルカメラ」、富士重工の「スバル」、日産の「フエアレデイ―Z」等など・・・。
とくに、「フエアーレデイ―Z」の開発は興味深いものであった。工業デザイナーが主役として登場し、私の敬愛するOB松尾良彦氏がその主役であったからだ。

デザインの夜明け(図案・意匠からデザインへ)
 その当時、我が国のデザイン教育は、図案、意匠系の教育が主流であった。
日本大学の美術学科、特にデザイン系はバウハウスに習った新しいカリキュラムが組まれており、漠然とだが次代を予感したものだった。時代の先端を行くのだ、と自負するそんな学生も多かった。バウハウス時代の作家にも傾倒していた。
その授業、山脇巌教授(バウハウス/デッソーの出身、当時の主任教授)を中心とした幾つかの実習・基礎教育課程を終えるとVC=ビジュアル・コミニケーシヨンコースとPF=プロダクト・フォームコースに分かれることになる。

その頃の実習・・・
 古ぼけた木造、2階建ての校舎が立ち並ぶキヤンパス。
その頃の芸術学部がおぼろげに私の脳裏に浮かび上がる。
その一画、練馬病院寄りにそのアトリエがあった。
レモンイエロウに塗り込められた平屋一戸建て、PFコースの2年から4年生が同居したアトリエであった。
日本の工業デザインの草分けでもある小杉二郎先生が年に数回、松本文郎先生が毎週その学生達を指導した。学年でテーマは異なったが、時には全員の講評会があった。
冬にはダルマストーブを囲み、コッペパンを焼いて食べたりもした。バターピナツは最高だった。学科やコースに関係なく、モノ造り、車やバイク好きが集つていた。賑やかなサロンにもなったものだ。
そんな中に松尾良彦もいた。向こう気の強い、意気軒昂な先輩だった。
その一級上に長坂亘、石原堅次、倉重秀夫、奈良謙など・・・。後に企業、社会の第一線で活躍する、そうそうたるメンバーがいた。
ID卒業生名簿に、一期生としているのは、この学年からである。
ヤル気も向上心も人一倍あった。松尾はよくそのグループと行動を共にしていた。
その部屋の最下級生が、私たち・・・。体育会系では無いが1目も、2目もおく先輩の前では、小さくかたまった存在であった。
世界デザイン会議が東京ではじめて開催され、世界の各地からデザイナーが来日した。
併せて、関東の美大(デザイン系)が連携し、デ学連=デザイン学生連合が出来る、という時代でも合った。

夢はカーデザイナー・・・
 36年4月、彼は予てより望んでいた日産自動車・造形課へ就職した。
我が国では自動車ブームが始まろうとしていた。
日本企業は何かと生きる道を探り、市場を広げようと苦労していた。世界を目指すという助走の時代でもあったのだ。
1958年、日産自動車もその本場、アメリカに乗り込んだ。
その陣頭に立つのが、片山豊であった。
日本とは、かなり違う、アメリカ大陸での売り込みは筆舌に尽くせないものであったろう。
極東の島国、敗戦国が持ち込んでくる自動車に信頼を寄せるものなどいないのだ。
この広大な環境を、寒冷、熱波の気候を、高速のハイウエイを、そんな長時間を走らせたことの経験、知識すら無かった。そんな国産車での挑戦でもあった。
ある朝は、冷え込んだエンジンにやかんの熱湯をかけ、エンジンを始動させる。そのために走り回った。
砂漠地帯ではオーバーヒートし、ハイウエイでは風圧でボンネットが飛び上がった。
イタリアやフランス、ドイツなど、世界の名車が集まるアメリカでもあった。
その未熟な車、時代遅れの陳腐なデザインの日本車には弁解の余地などなかった。
片山豊の努力も空しく、販売はゆきずまっていた。
そんなときにと呼ばれた開発がはじまった。
「庶民の為のスポーツカーを作る」片山豊の提案であった。

Z計画はじまる
 そのプロジェクトに集められた人々、意匠課主流を外されていた松尾良彦。スポーツカーとは無縁の特機事業部門の技術者達8名。ナレーシヨンで言う、日陰部署の集団である。
その当時の社会、企業には学閥があり、守ろうとする社風があった。
或いは、単なる上司の権威、感情的な支配も有った。気に入らない奴、出過ぎる奴は外す・・・。
それでも国内市場では作れば売れる、手探り時代のお手盛り経営でもあった。
「護送船団方式」と言われる企業組織。組織の意志に添わず、従わ無い者を外す事で職場の「和」を保つ、という大義名分もあったには違いない。
しかし、人は往々にして、立場を守ろうとする保身体質を混同させるものだ・・・。
今日、我が国の政治経済の混迷、国際化の遅れは、それが一因であるとも言われている。
そのドラマは、しかし、彼らが決して落ちこぼれではなかった事を捉え、再現していた。
まさに、いま望まれている、そんな異能人、異能集団であったのだ!

夢をカタチにする・・・
 「いまに見ていろ・・・」そんな彼らの屈辱感と悔しさ、がバネになった・・・。
からだの奥に確りと秘めていた夢、膨らませていたイメージが、カタチになろうとしていた。
スポーツカーに夢を託す、デザイン担当の松尾良彦。
そして、その性能に挑戦し、極めたい技術者の熱い思いがせめぎ合い、競い合って開発は進められた・・・。片山豊の思いをこめた「Z旗」–突撃せよ!をシンボルとして・・・。

2年後、そのスポーツカー「フエアレデイ―Z」は、緒手を挙げて受け入れられた。
「圧倒的でした!」「全米で大ブームを巻き起こし、マスコミがこぞって「Z」を誉めちぎった・・・」と、いまも、その興奮を隠さない片山豊。当時のアメリカ日産の社長。
苦戦していた彼の夢が叶った時でもあった。
彼ら全ての努力が報われたのだ。
世界の名車が競う、あのアメリカの地で・・・。
それは又、日本のデザインが、初めて認められ、世界に強烈なメッセージを発信し認知させたものでもあった。

このノンフィクシヨンは感動のドラマ、でもある。
あるいは、我が国の貧しい創造的環境を超えて結果を獲得する過程が、感動のドラマにもなるのだ!
幼い頃から描いていた<夢>を、冷たい視線の中で黙々として実現させた、本学OB、松尾良彦氏の闘志。少ないが良き理解者、仲間を得た強運。その意志力に改めて敬意を表したい。
デザインが人々に喜びを、勇気を与えた。
デザイナー冥利に尽きる事でもあろう。
この「フェアレデイ―Z」は、世界の名車と同じ様に、デトロイトのフォード博物館にパーマネントコレクションされ、たと聞いている。
Zの放映は終わつている、がその物語は出版され「プロジェクトX (14) – 命輝け、ゼロからの出発」(NHK出版 定価:1、700)の中に収録されている。

(Dec,27 ’02 記)

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