オリンピックエンブレムがマスコミに発表されて以来、そのオリジナリティが問題視され、インターネット上でも炎上している・・・。 問題は、他作品との比較による類似性、使用されているパーツや色彩などの相似性の印象だろう。「なんとなく似ている?」、「似ている?」、「パクリ・・・?」 クリエターにとってはデザイン力、個人的な人間性までも否定されかねない屈辱的で不名誉なことだろう。まさに、世界的なネット民によって語られ、厳しい目が向けられるようにもなった。デザイナーの「ベルギーには行ったことはないし、その作品は全く知らなかった、制作時に参考にしたこともない」という説明にも、いささかの違和感を覚えた。 デザイナーが「見なかった」、「知らなかった」は、致命的なこととすら思えることだ。ネット社会のいまは、知らないということでは専門家としては如何なものかとも思う。「知らない」ことでは、「これが、オリジナルです」とは断言は出来ないし、既にどこかにあれば類似性が問われ、盗作が疑われることにもなるからだ。

「デザインは、『無』になって考えないと影響されて独創的な作品は生まれないから・・・」ともいう。確かに・・・が、しかしいまは、過去から現在までに至る高度なデザインレベルの画像も、様々なメデア、ネット情報として日常的に触れることが出来るわけで、見ないという方が難しい時代でもある。 その意味では「無」=「0」から独創を生み出すことではなく、出来るだけ多くの先行事例を調べたうえで、それらの全てをあえて「否定」してみることだ。 「0」を意識したところからイメージをカタチとして、オリジナリティを求めることで自らの「コンセプト」も明確になり、影響されないという強い意志で表現の差異化の可能性を求めることだ。そのためのアイデア、メモやスケッチはオリジナルをつくる記録として極めて重要!だろう。 ともあれ、デザインの発想は、テーマを咀嚼することから、自らのイメージ・コンセプトに従ってデザインの素材――文字、図形などの寸法、比率、色彩などの表現要素を用いて表現する。結果は、今回のように相似性をもちやすい、類似性をもった作品も多いのではと思われる。自ら求めるイメージやアイデアと脳裏にある先行事例と重なるとき、触発され刺激されて可能性を持った「ヒラメキ」を得ることにもなる。確りとそれらの差異を確認することだ。商品やエンブレム、ロゴなど、意味は異なり用途も違うが、公表年月日に関わる証明が著作権を優先させる。

世界に氾濫するデザインやアイデアなどの類似性は「恐らく偶然の一致」、と一蹴するだけでは済まない巨大な利害、得失が生じ、個人のみならず企業や国家の名誉にも関わる問題でもある。オリジナリティを主張するにはそのことを十分に理解したうえで、自ら行動する細心の心構え、あえて類似性をさけるための知力が必要なネット社会でもある。       (2015/9・1 記) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
メモ:
・「誹謗中傷――人間として耐えられない状況に至った」と言うデザイナーにはお気の毒に思うが、不手際と言うことでは済まされない本人の体質が問題でもあるように思われる。ネット社会の厳しい目が世界中にあることを強く意識せねばならないだろう。

・デザイナーは様々なものを見て「ヒラメキ」を得、また、触発もされる。 パソコンに取り込まれた単純なパーツ、数理造形を素材とした組み合わせる手法も・・・。どこかに「ある」のでは、と考えるのが常識だろう。ひとり「独創」を自負する前に、広い世界には類似するものが必ずあるものだ!と考えてみることだ!

・「テーマ」についてのオリジナリティを求めようと考え、「0」から考えてみようとする時、一度テーマに関わる「形」のすべてを否定してみることが必要だ。 この「カタチ」しかないと思い込んでしまう呪縛から解放され、「疑ってみる」こと、「否定してみる」ことで自らの「コンセプト」が見えてくることにもなる。 「なぜ、このカタチ?」と疑い、ただ、在るモノを組み合わせただけでは独創は生まれないし、デザイナーとして納得できるモノにはならないだろう。

・夢かすむオリンピックスタジアム、そしてエンブレム・・・。 それにしても、これほどに我が国が「デザイン」について、その「オリジナリティ」について、多くの人々によって語られ、考えさせられたことはないだろう。 我が国へ向けた、世界の厳しい目も意識される。オリンピックが夢膨らむものになるのだろうか・・・?

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