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清水教授のデザインコラム/連載 - 93(03/31/2010)

「道標シリーズ−−鳩と鴉のブロンズ・・・・」

 歴史上の著名な作家のものだと「陶器」や「掛け軸」が持ち込まれ、あるいは、子供時代に遊んだと言う「オモチヤ」が出展されるという、「何でも鑑定団」・・・。
依頼人の真贋を見極める眼が問われることにもなるが、なによりも、そこここに所有されているあらゆるものが、鑑定人によって鑑定・評価される。カウンターに打ち出され評価額に狂喜するもの、落胆するもの有りとその悲喜劇が面白いのだ。
見るものの好奇心と野次馬気分もあって興味をそそられる番組で、なかなかの人気のようだ。
・・・
ところで、番組を観ていていた先日、思わぬ形で柳原先生とその作品に出会うことになった。
それは、30代前後だろう女性が持ち込んできたものだ・・・。
「数年前、この子が生れたお祝いに、田舎の父が持って来てくれたものなんです」
「日曜大工で余った金属材を近所のリサイクル業者に売りに行ったときに、鉄屑の山に紛れ捨てられていたのです」という。

覆われていた布の下から現れたのはブロンズ製の鳩!
「そのお宝の裏にはには『yanagihara』と読めるサインがありました」と。
「さっそく、インターネットで『YANAGIHARA』/『鳩』とキワードを入れ調べてみると、有名な彫刻家の作品だと分り驚きました・・・」と、その女性は続けた。
それはまさしく柳原義達先生のブロンズの「鳩」だったのだ。

番組はここで、『命の根源を見つめ続けた彫刻家 柳原義達』と、その生い立ち、人となりが紹介された。「中学から日本画を学んでいたが19歳の頃、ブールデールの「騎馬像」を写真で見て感動、彫刻家を志し21歳で美校の彫刻科に進む・・・。
が、アカデミズムに馴染めず、在野の高村光太郎や清水多嘉示に私淑。日本に紹介されて間もないフランス近代彫刻を手本としながら独自の表現方法を模索していた。
43歳でパリへ留学、ジヤコメッテイやリシエなどと交流。その頃、部分にこだわっていた創作を、「全体から部分を作ることだ」と気付かされたのだと・・・。
さらに、「人間は立つことによって生命の本質を示す」のだという事を独自に発見する。
人間は重力に抗って、空間に立っている。その際、身体はほんの僅かな身動きによっても、内部に命の流れを生み出しているのだ・・・」と。
デザインを求め、思索するものにとっても示唆されることでもある。
依頼者の予想をはるかに超える鑑定額には、驚き言葉を失う女性。会場を埋める人々の中のどよめき・・・。

柳原義達先生のこと・・・・
そんな偶然から、テレビの映像ながら先生とその作品に出会う事になり、懐かしく思い出させてくれるものになった。
改めてインターネットでアクセスし、あの頃は気付くこともなかった多くのことも理解することが出来たようにも思う。

柔和な笑顔で話されることが多いが、時にメガネの奥に凝視されるような眼差しを感じることがある。ものの本質を捉える彫刻家としての鋭い観察眼だ。
1970年(昭和45)には、山脇先生の後任として美術学科の主任教授に就任されることに決まった。美術学科5専攻の取りまとめと、丁度、全国的な広がりをみせた大学紛争の過中でもあり、何かと大変な時代だった。
バリケードを背に学生と対峙する場面もしばしば、しかし、かばうようにその前面に立っていたのは彫刻専攻の学生達だ。
鳩をモチーフに、「平和」をもとめる意味あいを付与することになったのも無関係ではなかったのかもしれない。
・・・
いまはもう、取り壊されてしまった校舎が、新たに建ち上がり、地階には彫刻系やデザイン系の木工、金工、陶芸、塗装、塑像、石膏室などの制作実習室が空間を占め、機器、備品などの準備を急いでいた頃・・・。
あるとき、ふらりと研究室に来られ、新しく購入した人間工学の人体計測器などについての説明を求められたことがあった。工業デザイン専攻が購入した教育機器についての好奇心と主任としてのお役目でもあったのだろう・・・。

また、酒宴の席ではよく、右手を上に、左手は前の人の肩につかまる仕草、つまり、宝塚歌劇団のラインダンスだ!と踊りながら狭い部屋の中を回り、楽しく和気あいあいで座を和ませてくれた姿が思い出される。
専攻分野が違うこともあり、先生の作品については知らないことが多い。
しかし、人物をモチーフに両の手で包むように粘土象を捉えていた、そんな印象が私の記憶に鮮明なのだ。ただ、大学で制作されたことは無いので、アトリエで指導中の姿だったのかも知れない。
鴉や鳩や鴉を題材とする「道標」と名づけられた一連の作品を制作されたのはその頃だったのだろうか?
観察とデッサンを繰り返し、イメージを構想する制作のプロセス・・・。

ちなみに所沢キヤンパスの美術学科棟・正面玄関に『道標の鴉』が置かれている。
若い私にとっては示唆されること、学ぶことも多い時代だった。もっともっとお聞きしたいこと、習いたいこともあった筈なのだが・・・。
                           (2010/3・30 記)
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メモ:
日本を代表する彫刻家、鳩と鴉による道標シリーズの作品について・・・・

「画家があまり表現できない、あまりみる、あまり考えることもない、自然に内在する量の移動、量と量のひしめき、そんな自然のもつ不思議な法則を縦や横に組合わせる」と作者自身記しているが、大自然の不可思議な法則を強く意識して制作された鳩や鴉による道標シリーズは、柳原義達の仕事の道しるべであり、自画像でもあった。作品に込められた意識、観察眼と的確な表現力、こうした点で道標シリーズは、柳原義達の作品群の中だけではなく、彫刻家とほぼ同じ目線で鑑賞することはできるだろう。また、こうすれば柳原作品が持つ微妙なバランスや生動感あふれる肉付けなども詳しく見ることができる。
そうした素描には、「彫刻は触覚空間の芸術」と繰り返し強調する柳原の空間認識のありようを目の当たりにすることができる。長い年月の間、素描は欠くことができない日々の日課であった。繰り返し素描を描き、頭の中に完全にテーマが入ってから彫刻制作に取りかかると柳原は述べているが、それは人物や鳩、鴉等の動き、ボリューム、プラン(面)などを完全に把握するという意味であろう。
また、すべての素描が彫刻に結びつくわけではない。素描を描くことは、柳原が言う自然法則ー量の移動、量と量のひしめき、プランの構成、均衡の美しさ等々ーを把握するための目と手の訓練ということができる。そうであれば、素描の画面構成、対象の細部描写、等々の絵画的要素が全く問題とならないのは容易に理解できるだろう。粘土による彫刻の制作がかなわなくとも、フェルトペンで素描することによって柳原は紙の上で彫刻を制作しているのである。
柳原義達の人となりと作品は、しばしば「反省」という言葉で象徴的に語られる、絶えず自身の仕事を振り返る作者の謙虚な姿勢、人間性にも強く現れている。柳原義達の生涯と作品は、反省、内省を通じて「自然」「人間」「彫刻」の本質に迫ろうとした間断ない営みの軌跡である。
(酒井哲郎・岡泰正「せめぎあう動勢を見すえて?柳原義達のデッサン」カタログ所収1995年)

「何でも鑑定団」テレビ東京(毎日曜日pm9:00 放映)
面白い番組だ。様々な道具類、農器具や器、什器類、江戸時代に開発されたのだと言う民具、照明器具(田中久重/無尽灯)の仕組、カラクリ人形など・・・。まさに、何でも有りの鑑定であり、折々の解説はそれらの変遷を知るものとしての雑学的教養といえるものだろう。
最近、特に興味深いものとして、明治時代初期、当時の「鉄道切符」300枚余が出展されたことがあり、個人所有としては大変珍しいものだ。
鉄道をイギリスに習って我が国に導入する時代。明治政府の要職ながら若い日の大隈重信がいた。伊藤博文、井上勝らと語らって近代化を推し進めるための鉄道建設に力を注いでいたが、しかし、富国強兵を主張する軍部の反対に会い新橋〜品川間の用地提供を拒まれた。ために海を埋め立てて路線を確保した話しなど、日本近代化のエピソードを交えながら明治5年に新橋〜横浜間が開通した略史。その後、各地へと広がってゆく経緯など、数分編集された映像は、大変興味深いものだった。
ちなみに料金は
上等(1等)1円12銭5厘
中等(2等)75戦
下等(3等)37戦5厘
後に大隈重信は「封建割拠制の打破のために、人身を驚かせることも含めて鉄道の建設を決意する」と語っている。