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清水教授のデザインコラム/連載 - 54(11/29/2006)

1851年の教育批評・・・・

「教えるための、また、学ぶための数多い施設を目にし、また、学生や教師たちがあれほど大げさにひしめき合う有様を見れば、識見なり真理なりが人類にきわめて珍重されているように、ともすれば、世の人は信ずるかもしれません。
しかし、ここでもやはり、外観は人を欺いているのです。
教師たちが教える、その努力は知恵のためにではなく、知恵の見せかけと思わせぶりへと向けられていますし、学生たちが学ぶのも知識や識見を獲得するためではなく、おしゃべりが出来るようになったり体裁をつけるためだけなのです。
こうして30年ごとに兎に角、新しい世代が世の中に出てはきましたが、彼らはまるっきりの知恵なしで、ただ、数千年を通じて集められた人間の知恵の成果を本の概略だけ大急ぎでむさぼりくらい、すぐさま、過去の一切の人々よりもはるかに賢くなろうと考えます。
こんな目的で、彼らは、あちこちの大学に籍を置き、さまざまな書籍・・・自分の同時代者か同年配者としての最新の書籍へと手を伸ばします。
ただ彼らの読む全ての書籍は、簡単で、彼ら自身が新しいように、新しくなければなりません!
それから、彼らは、それらの書籍をよりどころとして、だらしの無い判断を下します。
ただ物知りになることだけを心がけるばかりで、洞察する見識を求めようとは考えていません。
ものを知っているということは見識に達するひとつの単なる手段ににすぎず、それ自身としては、ほとんどあるいはまったく価値のないものであることなどは、彼らの思いおよばぬところ、実は、このことこそ、哲学的頭脳を有するものにして始めて気がつく考え方なのです」
一寸長い引用になったが、哲学者ショーペンハウアーの小論文集(1851)の1節である。
当然、当時のドイツにおける社会現象の痛烈な批判となるものであろうが、しかし、何か最近のわが国のことを言っているようでもある。まさに、今日の我が国がかかえる教育問題への批判であるともみえるのだ。
論文が翻訳され刊行されるまでの115年、つまり、昭和41年(1966年)は我が国にとっては「マス・コミニケーシヨン」が盛んに言われはじめたころでもあるのだが、翻訳者をして「いまだに新鮮な感銘を受ける。いや、それどころか、まるで現代人のためにわざわざ用意されて書かれてあった」のではと言わしめていることだ。
そして、その言葉は、更に、その50年後のいまも通じることでもある。
ペシミズムといわれる哲学的考察も、率直で辛らつな言葉も、そのまま現代社会に生きており、人の歴史は繰り返されていることを示す証左であり大変興味深い。
このほこりまみれの文庫本は江古田から、この所沢キヤンパスへ移転した際に運び込まれたダンボール箱から取り出されるまで、すっかり忘れていたもの、多分、若い頃に神田の古本屋街で買ったものだろうが・・・。
**

日々のテレビや新聞報道によるニュース・・・。パソコン、雑誌などによる雑多な情報の氾濫、グローバル化は、ショペンハウアーの生きた当時のそれをはるかに越えるものであれば「洞察する見識」、「自ら考えること」の必要を痛感はしても、極めて困難なことと言わざるを得ないもの・・・。
しかし、近年のわが国における教育の空洞化をみるとき、「生きること」、「学ぶこと」の意味、その「本質」を「みずから考える」時間を持つべきであり、いま何より重要なことなのだと思わされることでもある。
ところで、先日の日本経済新聞には識者による寄稿文が掲載されていた。
「1980年代、158万人だった18歳人口は1992年の第2次ベビーブーム世代によって205万人にふくれあがり『受験合理主義』、学習の質を変えた合格偏重主義が台頭したのだという。
授業の終わりには、「何か質問は・・・」と問うが、ほとんど答えが帰ってくることはない・・・。
「変な質問をしたら恥ずかしいから・・・」というよりは、「聞いてなかった」「興味が無い」「質問が分からない・・・」「・・・・・!」
或いは、今の若者にあるといわれる「知ってる、つもり・・・」「わかった、つもり・・・」という、「わかったつもり」症候群・・・?
なにかに追われるように先へ先へと虚ろな眼を向け、咀嚼する時間を持たないのだ・・・。
いまどきの大学生、わからないのは当たり前という社会的な風潮もある。その甘やかしが若者を駄目にしたのだと言う識者は多い。
しかし、そんな甘えの空気は行き渡っており、だから、恥らうこともない・・・。
知らなくともなんとかなるのではという安易さ、甘えの無気力がみえる。  
とにかく、以前には大学の入試があったにも関わらず「正解発見型の授業」があり、「本質を探求する教育があった」のだ、ともいうのだが・・・。

目標を見失った当事者たちが、やがてまた、教育の様々な場に立つて指導する事になると、その本質はますます見失われ一層の混乱を引き起こすことになるのだろう。
**

「多く読んだり学んだりすることが、みずから考えることを妨げるのと同様に、多く書いたり教えたりすることは、人間から知識や理解を明瞭にし、根本を見きわめる習慣を奪います。というのは、時間がその人に明瞭かつ根本的な知識及び理解を獲得することを許さないからです。と言う文章には常日頃の私自身が考えさせられていることでもある。

「非常に多くの知識を持っていても、それが自己の思考ですっかり咀嚼されていないならば、はるかに少ない知識でも幾たびか繰り返し考え抜かれたものに比べると、その価値は著しく劣るでしょう。

なにしろ、人は、自分の知っていることを、あらゆる方面から組み合わせてみたり、ひとつひとつの真理を他のそれぞれの真理と比較したりすることによってのみ、初めて自分自身の知識を完全に我がものとし、また、その知識を自ら活用出来るようになるのですから。
人はただ自分の知っていることだけを熟考してみることが出来ます。
それゆえ、人はなにごとかを学ばねばなりません。
とはいえ、人が知っているのは、やはり、みずからすでに熟考を経たものだけに限られます」という。
「みずから考えること」の、この部分には若い頃のわたし自身が強く考えさせられたものでもあり、時間を見つけて当時の社会、ドイツ、そして日本の教育事情などと併せて、改めて読み返してみたいと思っている。
                            (28 Nov.'07 記)
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注:ショーペンハウアー 独・1788〜1860 ペシミズムの哲学者。カントとプラトンの研究に没頭し、1813には「根拠律の四根について」を書いている。またゲーテの「色彩論」に刺激されて「視覚と色彩について」を書いた。
主著は「意志と表象としての世界」、そのなかで「世界」とは「私の表象」にほかならず、その根源は非合理的な生への盲目的意志であるという。この意志としての世界はみたされない欲望を追求するものであるゆえ、あらゆる苦悩の根源になる。生とは苦痛だ。その生の苦痛から解脱するのは、意志を否定し、禁欲と静寂、涅槃(ねはん)の境地に達することだと説いた。彼の哲学はニーチエやワグナーに強い影響を与えている。






清水教授のデザインコラム/連載 - 53(10/31/2006)

図工教育が無くなる? なにかおかしい世の中に迷走する学校教育・・・

学ぶ心さえあれば・・・、
万物全てこれわが師である。
語らぬ石、流れる雲、つまりはこの広い宇宙、
この人間の長い歴史、どんなに小さいことにでも、
どんなに古いことにでも、
宇宙の摂理、自然の理法がひそかに脈付いているのである。
そしてまた、人間の尊い知恵と体験がにじんでいるのである。
これらの全てに学びたい」
松下幸之助
**

ところでわたしは、1本の樹に興味引かれた。自然律の秩序、しかし、同じものは二つとは無い自然の造形、その多様さにも驚き、その偉大さに思いを致したものであった。
日ごろ触れる人工物とは一見対峙したものにも見えるのだが、学び、考えることは多い。
わたしの年中行事の1つにもなったこの、銀座での燦燦会展はその時間を与えてくれるものでもあった。

その燦燦は33であり、昭和33年に入学してまもないころ、初めての専門の授業を受けたときのことを思いだしていた。
ただでさえ緊張気味の1年生、突然「お前たちの鉛筆を机の上に出しなさい!」といわれたときだ・・・。
壮年の偉丈夫、皮のジャンパー、そしてズボン。
まるでカウボーイ?
そういえば浅黒い顔、漆黒の長髪は?脂ぎって、いかにもエネルギュツシュに見えた。
その大きなシルエットは首をちじめ固まって居並ぶ学生の間を縫ってだんだんと近づいてきた。
時に大きな声で怒っているようにも・・・。
それが鉛筆の削り方を見ているのだということがわかった・・・。

わたしの机から3〜4本の鉛筆を掴むと目の高さで凝視するように数秒間眺めていたが黙って元の位置に戻してくれた。
芯先への角度、6角の部分へ当てる切っ先の位置、滑らかで切れ味の鋭さ、芯先の適切なとがり具合、そして、その均質なバランスの美しさをみせること・・・。
この鉛筆削りには、わたし自身も多少のこだわりをもっていたのだ!

一通り教室を見回ると黒板を背に実習を受ける心構えを話された・・・。
「鉛筆の削り方、研ぎ方1つでも重要なんだ!」と・・・。
建築家でもあるその講師には、後におずおずと差し出す学生の課題を目の前で破り捨てるという厳しい指導を受け、そんな光景を何度も目撃させられることになった。
射すくめられるような眼光には怖じけて立ちつくす、そんな緊張の時間でもあった。
いまの時代には考えられないことだが、その厳しさが有り難く、懐かしくも思っている。
**

「愛国心」や「強く生きるための教育」?
いじめや高校生での履修不足、中・高生の自殺や幼児や親族殺人・・・。
なにかおかしい時代を右往左往する教育の指針・・・。
学校教育での図工が、ますます少なくなる?と聞いた。
図工などは現代IT社会の中で生きていくことに、何の役にも立たない。そう考えたということだろう?
厳しい受験競争の中で、受験科目に関係しない世界史、音楽、図工、体育などの比率を減らし、主要科目に特化する。予想される競争社会で生き残りをかけた人材の育成をと考えてのことらしい。
しかし、義務教育の中でも図工は、有一と言える「自らが考え、そして、つくる」ことが出来る科目ともいえるもの・・・。ノコやカッターを使い、釘を打ち付けて作り上げる。そこから日本人の器用さと美意識は育まれたものであったのだが・・・。
一人の人間としての完全をつくるさまざまな感性を身につけることの重要性が忘れられているのではと懸念している。
「ゆとり教育」が失敗だったと言うが「学ぶ目標」を喪失させた今日の教育環境であることをわすれているのではないだろうか・・・。
また、主要科目とは異なるが生身の「自分」というものを意識させるものとして極めて重要なものでもある。

(31・Oct/2006 記)





清水教授のデザインコラム/連載 - 52(9/30/2006)

モノの造形・・・形をつくること・・・・。」

最近は社会や産業の活性化にデザインの役割が見直されているようです。
しかし、その割には「デザイン」というものが余り理解されてはいない?
結果として生み出されたモノ=商品を見たり、触れたりすることはあっても、「ものづくり」そのデザインプロセスのさまざまなアプローチが語られたり、新しい「形」をつくる苦労が語られることが無いからなのでしょうか・・・。

「日々の生活に潤いといろどりを与えるモノづくり、それがデザイン・・・」。
そんなまばゆいほどの雑誌の記事を見てデザイナーになりたいと思い立った人も多いはずです。
「可愛い・・・」
「カッコいい・・・」
「きれい・・・」、
「もっともっと楽しい、ユニークな形の商品が出来るはずなのに・・・」
「平凡でつまらないものが多過ぎる、自分なら、もっと出来るはず!」、そう思った学生も多いようです・・・。
「こんなモノをつくった、デザイナーに頼むことは無いよー、どうだ!」と企業の社長さん。

しかし、モノの「形」をつくることはそう簡単なことではなく、実は大変な思考のプロセスと時間を掛けてつくられるものなのです。

モノの具体的な「カタチ」を決めるきっかけは実にさまざま、一言では説明しがたいがたいもの・・・。
しかし、多くの場合は既にあるモノの改良。つまり「既製品」を新しい生活や使用条件に合わせて「より良いものにする」リ・デザイン・・・。
ただ、何よりも消費者というユザーの共感を得て「売れる」モノづくりが主たる目的にもなる・・・。

その為に新たなデザインの条件を加味し、既製品の問題点を列挙し、全体から問題のある部分へのリフアインが繰り返され、その新しい可能性を求めるのです。
もう一つは「新製品」という、これまでに無かった「モノ」の新たなインベンシヨン・デザイン。この場合は新しい用途の必要から、或いは、新技術や材料などの発明があってそのそのモノの形を具現化しなければならないとき・・・。
その場合には綿密に練り上げられた調査企画から得られたコンセプトをもとに形を求めることになります。条件をアイデアスケッチとして繰り返し考え「形」としてまとめるものです。どちらかと言えばそのものを構成する要素のアイデアを組み合わせる事から全体をまとめ上げていくことになるのです。
最終的にはデザイナーの「デザイン力」、芸術的センスや感性が大きくものをいうことになり、研ぎ澄まされた感覚と審美眼の有無がそのモノの完成度を分けることになります。

ある程度は生来の能力であり才能でもある「デザイン力」、しかし、意識し努力することでその能力は確実に身に付くものでもある。
才能あるはずとの自信が打ち砕けるときがある。自分は駄目だと思うことも・・・。
勿論、止めたいと相談されたことも・・・。
それでも、「ヤル気」を失わず続けることが出来るかも才能の1つだと思います。
多かれ少なかれそんな壁を乗り越えてプロになる・・・。能力あるプロ・そんなデザイナーほど絶望的な壁を幾つも乗り越えているのだとも思います。

理解不足、訓練不足!発想力不足・・・、そして、さまざまな造形素材の不足!
そのことが身をもって分かったものは、一歩プロに近づいたのだともいえることです。
「デザイン力」の芸術性、その表現力・造形力は何よりも独創的で最適な形を考えるための素材=形、質感、色彩そして、点、線、面、立体、空間などの造形要素を持って思考することが必要なのです。
最適なカタチを求めるには、その組み合わせ、その可能性を極力多く発想することが必要なのです。
造形化を触発する形体要素が少ないこと、また、それを巧みに表現する力=スケッチ力が重要でもあるのです。学ぶべきデザイン力の要素として大きい意味を持っています。

日頃から絶えずあらゆるものの「形」に興味を持ち"観察する"という心構えが必要です。「眼で観察」し、手の動きに変える」という、この一連の作業を繰り返す訓練、そして、何よりもその「観察眼」を研ぎ澄ますことが重要でもあると言えます。ただ漫然と眺めるだけではなく「強く意識した見方」、「思索する心」を持つことです。 我々が日ごろ目にする自然物、人工物の世界にも漠然としているだけでは気付かない無限の造形があり、その法則性があります。 フイールドには無限の示唆に富んだ素材があります。そんな訓練が、形のプロとしての厳しい「眼」を育むことになります。機能的内容は異なるにしても自然の造形、その数億年、数千年をかけて創り上げられた「カタチ」、「仕組みの妙」に感嘆し、その多様性を理解することも重要です。自然物、人工物を問わず興味深く「観察する」習慣を持つ人は何よりも資質に優れたと言えるのです。
(Sept.30/2006 記 ) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

付記:

●モノの「形」を意識する・・・・
(1)ものを見る「心」、「観察眼」を養う
(2)自然物、人工物の「形」の成り立ちを明らかにする・・・
 形態、構造、仕組み、質感、規則性、輪郭線、部分の結合形、細部の変化の把握、異材質の表現
(3)ものの「カタチ」を明瞭に観察できる光源・・・
 ものの明暗、陰影、投影、反射などの十分な理解をもつて形状観察を試みる
(4)「眼」視知覚的な法則性の理解・・・錯視、空間・線のパースペクテーブ
(5)紙面という空間の把握・・・スケール感、比例関係、構図、収まりを考える美意識
(6)自然物・人工物の美醜の判断力を持つ識者、専門家の意見も参考にする
(7)その他、数理的な正確さ、仕組み、色や形状の秩序の造形には見習うことも多い

● 「モノ」を形づくるもの・・・・・
(1) 目的用途・・・操作性、収納・携帯性など夫々の形を探る(5W1Hによる情報収集・ 認識)
(2)機能性能・・・機能・性能的部位による合目的な構成特性のカタチを求める
(3)使用空間・・・使用・設置空間の特性からのカタチ。安全・安定・必要寸法
(4) 加工性・・・・製造・加工技術とその限界性からのカタチ。生産コスト条件も・・・
(5) 材料特性・・・材料、新素材からのカタチ、使用の可能性、省資源・リサイクルせいも・・・
(6) 造形美・・・・全てを1つに美しい形としてまとめ上げる。競合製品との比較で独自性を考慮する事も重要・・・プロダクト・アイデンティティ(7) 色彩材質・・・製品の色、嗜好・流行色Gその他 

● モノのカタチをつくる基本
(1)製品としての性能を求める様々な機能部品=構成要素を秩序ある形にまとめ統一性、併せて機能性能を示す「らしさ」という記号性をもたせる
(2)シンプルであることは存在の主張と合理性を示すもの、製品としての明快な印象をあたえる
(3)プロポーション・・・全体と部分、縦と横、正面と側面などの寸法比例などを時代の感性に合わせて考慮する。機能的でありながら、美しく新鮮で新奇性のある造形表現の組み合わせを選ぶこと
(4)シンメトリーは中心軸に対して左右が相似形であること、最もバランスがよく安定した形であるが単調であるとも見られアンシンメトリー、左右を変化させることで特徴的で動的な印象になります
(5)形、質感、色というモノの3要素の表現上のバランスを考える。その調和によって好ましい造形表情になります
(6)リズム感・・・さまざまな部分の大小の形、開口部などの造形要素を音楽のリズム感のように心地よく、遊び心をもたせながら表情の変化、魅力を持たせること
(7) アクセント・ワンポイント・・・製品の特性、機能部を強調することで製品を特徴付けるワンポイントを・・・・
(8)その他、さまざまな造形的表現を試みること




清水教授のデザインコラム/連載 - 51(8/30/2006)

「失敗」に学ぶこと・・・

「なんとも痛ましい・・・・・」
こんな事が起きるなんてとても信じられないこと・・・。
楽しくて、うれしくて、母親の前で夢中で泳いでいたのだろう、その小学生は吸水管に吸い込まれてしまった!
責任者たちの無責任!受動的で無反応な生き方・・・。
迂闊な行動が飛んでもない大惨事を引き起こしてしまったのだ!

事故とは「有り得ない」と思われる幾つかの偶然が重なるもの・・・。
しかし、「有り得るのでは・・・」と考えることで避けられないものではない。
施設の管理委託はその目的の前に委託料が安いというだけで決まり、受託者は目的を忘れていかに採算を上げるかに汲々とする・・・。
まさに、本末転倒なのだ!
企画者が、設計者が、そして、管理者が・・・。その「心」を失っている・・・。

徐々に、そして急速にアジア圏諸国が台頭、特に、中国などの低賃金による製品類が世界に拡散することへの対抗としてローコスト化がすべてに優先する価値観を持った。

競争とローコスト化は当然ながら開発期間の短縮につながり、「使用者」、「使用状況」を十分に咀嚼(そしやく)しない発想・設計を押し進める結果に。
おのずと、コンピュター、3D?CADに依存した設計になる。創造性は欠落し、先輩が問題点を指摘し指導することもなくなった。
予め自分が持っている考えを変えたがらない若者の意固地さが問題でもある。つまり聞く耳を持たない自己中心的なアプローチがあり、セクショナリズムが混乱を引き起こした。
私は生きた経験、組織的な発想があって、わが国の「品質」はつくられていると思っている。
全てがコンピュータ・マニュアルによってもの作りが出来ると思うのは極めて危険なことなのである。
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最近のニュースには暖房機、ガス湯沸かし器などによる死亡事故、エレベーターの誤作動、シュレッダーによる自動の指切断事故、パソコンバッテリーの発火、車のリコール問題と相次ぎ登場してくる。機器の設計ミス、そして使用ミス・・・。
企業は社会的に信用を大きく失墜させ、世界的なブランドと見られたソニー、トヨタ、パナソニックがダメージを受け、ジャパンブランドに対する信頼を著しく傷つけることになった。
品質こそがわが国の誇りでもあり、世界に認めさせるものであった筈なのに・・・。

「人は失敗をする」。その事を学ばせること、学ぶことが重要で教育に繋がる問題でもある。
言うまでもなく、人類史はまさに失敗を繰り返しながら学び発展して今日に至った歴史である。
失敗に学ぶ「失敗学」、その提唱者でもある畑村洋太郎氏は「人は誰でもが失敗する。失敗といかに上手く付き合うか」だという。
いつの頃か芽生えた小さな歪(ひずみ)が徐々に連鎖反応し、我が国の全てをおおい破壊しかねないのでは、と懸念している。
まさに、私たちは自らの肉体感覚で捉えた「人のためのもの作り」、その細心を「心」に深く刻み付ける教育がなされねばならないことを痛感している。
痛ましい事故は「学ぶ」ことで、二度と繰り返してはならないことなのだ!
                      (30・Aug/2006 記)
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追伸:
「水金地火木土天海冥」と親しまれてきた太陽系の9惑星。そのひとつの「冥王星」が70年余を経て除外され、惑星は8個になる。
大変なのは教科書・出版社なのだとか・・・。
すでに刷り上ったもの、その一行の訂正には天文学など、専門家のコンセンサスが必要なのだとか・・・。
この際、そのまま使用することにしたら・・・。
勿論、教科書の扱いは一字一句、同じように指導することを義務ずけられていることが問題なのだろうが・・・。
考えさせ、学童自らが訂正を書き込ませる、その事でより鮮明に学び、記憶するものになるのではと考えるからだ。
いまをつくる「常識」、その存在の多くが実は仮の姿、仮説的なものであるということを知ることが重要なのだ!
常識を疑い、意味を考える。そのことが「学ぶ心」をつくる・・・。