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清水教授のデザインコラム/連載 - 129(01/11/2013)

青と黄色の記憶

 昨年の夏ころだった? マウリッツハウス王立美術館(オランダ)所蔵作品の巡回展が東京と神戸で公開されており、その代表的な作品がポスターや書籍などとして其処ここで目にすることにもなった。
特に、「真珠の耳飾りの少女」、その恥じらうような頬笑みには、あの『モナリザ』と同じように魅了されている。
ふーっと振り返った、その一瞬だったのだろうか?見つめる少女のあどけない眼差しが真っ直ぐに私を見つめており眩しく思えるほどだったからだ。
その少女は誰? 画家を見つめていたモデルは一体誰だったのだ、と絵にまつわる話題にも事欠かない。
16世紀末イタリア・ルネサス期の中から生まれたバロック美術は、豊麗で感覚的 現実的な特徴をもつといわれている。
それでも、この時代にはまだまだ絵画的な序列があったといわれ、宗教画や神話画であり王侯貴族、宗教人、豪商などが注文する意図をくんだ煌びやかな肖像画が絶対的な価値をもつものとして考えられていた。
現在では当たり前と考えられる風俗画や風景画、静物画などは評価されるものではなかったということだ。ちなみに、風景画を最初に描いたのは万能の天才レオナルド・ダ・ビンチ(1452−1519年)だった。
フェルメールは日常生活の1コマとも言える平凡な人物をモチーフとして描きはじめており、当時の風潮に従うものではなかった。いわば異色のバロック絵画であり評価されるものとはならなかった。
ただ、この傾向はフェルメールだけではなく黄金期とも云われる17世紀オランダ絵画全般にもいえることだ。
当時のオランダがおかれていた状況は、強大なスペイン帝国の属国として常に圧力を受け続けていた。スペインが宗教国家であり、貴族国家として威圧的であったが、オランダは商業国家として穏やかな市民の国で、卑屈な思いも強くあったに違いない。
芸術家が自らの信念と誇りを胸にひそかに反旗をひるがえしていただろうことは容易に想像されることだ。フェルメールが作品に込めたものは、決して社会は上流階級だけのものではなく、ごく普通の市民生活のなかにあるということを云いたかったのではないか。権威に対する芸術家らしい反骨心! フェルメールの宗教心や母国に対する愛国心がそれとなく主張されているのだと。
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ところで、ヨハネス・フェルメールは1632年にデルフトで生まれ、生涯をデルフトで過ごしている。
多くの画家の友人達もいたが、彼のようなスタイルの絵を描いた人はいないし、誰に師事したかということもわかっていない。 
父親と同じ美術商になり、画家であるとも自認していた。しかし、制作は依頼されるものを年間2〜3点描く程度で、妻と11人の子供を養うには厳しく、裕福な義母に依存していたようだ。フェルメールが生涯で描いた絵は、わずかに45点余。そのうちの35点弱が現存しているのだとか。初めは比較的に評価されていたものだがやがて評価が失われ、失意の中で43歳の生涯を閉じた。彼の没後は忘れられた存在となり、競売に付された作品も、なんと2ギルダ30セント(110円=2012年の日本円に換算)で落札されていたと云うのだから、驚く!
スペインやイタリア、フランスなどの外圧? 権力者の不興? 地域社会で「何かあったのか!」と考えさせられるほどの失墜だった。
往々に、芸術家としての発想や自己主張はパトロンとなる権力者たちのプライドを傷つけ、不興をかうことにもなる。レンブランドなどもまた、同じ失意の末路だったことを思えば、何か通じるものがあるようだ。 
しかし時を経た1866年、フランス人の美術評論家テオフィレ・トレ・ビュルガーによってフェルメールに関する論文が発表されると、評価は一変している。
今は、レンブラントと並び称されて17世紀のオランダ美術を代表する画家として高く評されている。勿論、ヨハネス・フェルメールの作品は、値段などはつけられないほどに貴重なものとして多くのフアンを魅了し、なごませるものになっている。                                         
(2013/11・1 記)
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メモ:
・じつは、ヨハネス・フェルメール(1632−1675年)の作品を見たのはもう数十年も前になるのかもしれない。数年ごとに訪れていた欧米など数十ヶ国の都市では、なによりも美術館、博物館の類はほぼ見ていたからだ。何回か、何十回か通い詰めた美術館もあった。
ただ残念なのは「見た!」と断定できないほどの記憶の危うさがあった。なにしろ、広大な空間、その壁面には著名作家の劇的な大作がきら星のごとく連なっているのだから圧倒されたのだ!
静謐(せいひつ)の画家とまで言われるフェルメールの作品は極めて控えめで小品、代表作「真珠の耳飾りの少女」は8号位のおおきさにすぎない。ちなみに、17世紀オランダ絵画を代表する一人、レンブラント(1606−1669年)の大作1点に、フェルメールの全作品が収まってしまうほどなのだ。
また、この時代には常識となっていたのだろう画面を構成するためのパース、その消点にピンを立て、糸を結んで四方に線を引くという手法で画面に辺りをつけ、画面空間を正確に構成しているのだとか・・・。
実は、このパースもレオナルドの発明であり、これらを時系列的に並べて考えると大変興味深いことだろう。
時代はますます自然科学への関心を高いものにし、天球儀を見つめる天文学者が描かれてもいる。光学的な研究成果は望遠鏡の発明などもあって、天体への関心も強くなっていたのだろう。
画家が大気中の光の粒子を意識し、対象物の色をそのように見ていたと云うのも自然なことだったろう。
後年、印象派による鮮やかな色を配列する「視覚混合」は、フランスの画家ジョルジュ・スーラ(1851-1891年)などが継承し点描法を確立し、その「点描法」はさらに、ゴッホ(1853-1890年)を特徴づける筆致を生み出すことにもなっているのだから興味深い。
ところで、フェルメールの絵に見られる鮮やかな青は、フェルメール・ブルーと呼ばれている絵の具。非常に貴重な鉱石「ラピスラズリ」を原材料としていることもあり、当時は金よりも高価であったといわれている。裕福な義母やパトロンに支えられてこのウルトラマリン・ブルー、通常の青い絵の具の百倍の値がついたとされる貴重な絵の具を思うままに使い描いていたのだとか。 
彼はまた、「オランダの光の画家」とも呼ばれており、オランダ各地にあった湖や湿地帯の水面が雲に強く反射して、独特の空と光を生み出す神秘的な光に強く意識させられていたのだろう。
昨年来、目にするポスターや購入した数冊の書籍などの作品に呼び覚まされたこともある。あのフェルメール・ブルーと黄色の絵の記憶は確かに私の脳裏にあった!

<ヨハネス・フェルメール(1632−1675年)の主な作品>
・牛乳を注ぐ女 1658-60 アムステルダム国立美術館
・レースを編む女1669-70 ルーブル美術館
・天文学者1668 ルーブル美術館
・地理学者1669 シュテーデル美術館
・デルフトの眺望1660-1 マウリッッハイス王立美術館
・真珠の耳飾りの少女1665頃 マウリッツハウス王立美術館