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清水教授のデザインコラム/連載 - 114(4/01/2012)

ユニクロ ブランド世界へのステップ

 3月16日、新型ipadの発売を待つ行列が並ぶ銀座。その日、ユニクロもまた世界最大規模の店舗のオープンを持って行列ができていた。
12階までのファサードすべてが透明度の高いガラスで覆われ、見上げると華やかな色取りのマネキンがゆっくりと回転している。
入店を諦め、エントランスから覗いてみると、2階までが吹き抜けになって巨大なウィンドウ ディスプレイが商品を魅せるプレゼンテーションスペースに・・・。

 ユニクロ ブランドの世界への展開
ニュジャージ(05)、パリのオペラ座(09)、ニューヨーク5番街(11)へと相次ぎ最新の店舗、世界の中心地への出店で築いたグローバルブランドのイメージを日本に逆輸入し、「最新、最旬の品揃えのプレゼンテーションと最高のサービス、オペレーションを導入した「ユニクロのショーケース」なのだという。
これまでの日本にあるロードサイドショップとしてのイメージを払拭するとともに、アジア諸国への情報発信基地としての役割がおおきく、「銀座・ユニクロのイメージをそれぞれの国に持ち帰ってくれることを期待した広告塔なのだ」という。
日本を訪れる観光客の多くがショッピングを楽しむ場所だけに、520人のスタッフのうち約100人が外国人であり、6カ国語で対応出来るのだという。
予め、英語は社内の公用語とし、通年採用などを実施するなど、次代に向けた対応の「決断」が早い!

 経営者 柳井 正
柳井 正は山口県宇部市生まれ。早大政経学部を卒業。父親のすすめでジャスコに入社。四日市店で家庭雑貨売場を担当していたが嫌になり9ヶ月で退職。その後、半年程、友人の家に居候したあと、父・柳井仁が経営する小郡商事(宇部市)に入社している。
当時は「メンズショップOS」を展開しており、紳士服などの男性衣料が中心だったが、洋服の「青山」や「アオキ」などの郊外型紳士服店が業績を拡大したため競合を避け、安価で品質をそろえたカジュアル衣料を中国地方を中心に店舗展開をし、全国への展開を目指していた。
1984年には、父の後を受け社長に・・・。ユニークな衣料ということで「ユニーク・クロージング・ウエアハウスUnique Clothing Warehouse」、略して「ユニ・クロ」に。また、香港に現地法人登記(1988)のおりには、「UNI-CLO」とすべきところを「UNI-QLO」と誤って記入。そのまま英文綴りは商標化「UNI-QLO」としてしまったのだという。面白いはなしだ、その1字「C」よりは「Q」の方が印象的でインパクトがあると思えるからだ。
1991年には社名を「ファースト リテイリング」に変更。2002年代表取締役会長兼最高経営責任者に就任し、その11月には社長を玉塚元一常務に交代し集団指導体制をとることに。が、その手法にあき足りないものを感じたのだろう、2005年7月には社長を解任すると再び柳井が社長に復帰、グループ各社の会長職をも兼務している。

 意思決定のスピード化
多様化する企業意思の混乱を断ち、決断を一元化したということだろう。
その後、良質なフリース(1,900)やジーンズ(2,900)など、価格破壊の象徴としてマス・メディアなどにもたびたびとりあげられて爆発的なヒットを生み出している。しかし、多くの人が「同じものを着る」ということであり、他人と同じものを着ている時の「恥ずかしさ」は、また、「カッコ悪い!」という感情にも・・・。
そのことは経営悪化の要因としては極めて大きいものになっていたようだ。
「ユニクロは国民服」であり、「多くの国民に品質の良い物を安く提供するのだ」とのコンセプトも衣服としての個性やファッション性は軽視できないものなのだ。
しかし、その対応も早い! ニューヨークの旗艦店を立ち上げる時にはベーシックな商品を販売するスタンスは維持しながらもファッション性をとりいれ、接客を重視するという方向性に転換していたのだ。
さらに、デザイン性の強化のために「ユニクロデザイン研究室」を青山に設立。デザインに特化した独立組織としてイッセイミヤケ元社長の多田裕氏を起用し、また、世界の著名デザイナーとのコラボレーションによる「デザイナーズ インビテーション プロジェクト」なども・・・。

 世界に知られるブランドにしたい!
その強い思い・・・。経営者としての柳井正の頭の中を占めるのは、いつも「グローバル化というキーワード」だったようだ。
ちなみに先日発表された2012年、国内ブランド価値ランキングでは6位にまで飛躍している。しかし、世界のブランドを意識している柳井にとっては、あくまでも過程の数字に過ぎないと考えているに違いない。
その柳井正氏について、ユニクロ元社長の玉塚元一氏は「経営者を目指す上で、ユニクロでは本当にいい勉強をさせてもらいました。やっぱり柳井さんはすごい人です。いまでも本当に尊敬しています。あの人の仕事に傾けるエネルギー、経営者としての決断の速さは半端じゃありません。あの人のエネルギー源は何か。創業者としてオーナーシップを持って自らリスクをとっている、そういうところから来ている。
私にはオーナーシップの経験がない。私との決定的な違いがそこにあるんです。ユニクロに残って別の仕事をさせてもらう選択肢もありましたが、このまま(雇われ経営者)では、本当の経営者として成長できないと感じたんです」(「ユニクロで学んだこと、今後の展望」2005年11月9日 日経産業新聞)のなかでそう述べている。

 ユニクロへの批判
ローカルなカジュアルチエーンに過ぎなかった90年代の初期からの驚異的な発展を続ける成功の背景は「経済の衰退と若者の感性圧縮による消費文明の退化にある。グローバル平準化と云う消費スタイルから産業構造にまでに及ぶ歴史的な変化を衣料品業界のみならず家電業界や自動車業界までも視野を広げて考えてみるべきだろう」との児島健輔(フアッションマーケッティング社長)氏による指摘があり、考えさせられることだ。
・エコノミストの浜矩子氏は、ユニクロのように企業が低価格で商品を販売することが企業の利益を縮小させ、ひいては人件費の切り下げにつながっているとしてユニクロのような経営を「自分さえ良ければ病」であると批判、「せめて安いモノを買うことが自分と他人の値打ちを互いに下げていることに思い至ってほしい」と主張。(「ユニクロ栄えて国滅ぶ」文芸春秋2009年10月号)
・また、経済学者の池田信夫は自身のブログで、ユニクロの低価格モデルが相対価格の変化であり、「ユニクロは日本を滅ぼすどころか、日本企業がグローバル化するロールモデル」であるとの意見をのべている。
・ユニクロが「安かろう悪かろう」だったのは昔の話。いまはベーシックな商品ながら、人々の生活の中にある「ニーズ」を確りと捉えており、その機能性を形とし、色彩に魅せるものづくりを低価格ながらブランド品質に仕立てている。このことこそがユニクロのブランドイメージなのだろうと思われる。
オイルショック後の「省資源」が生活のキーワードとなった1980年代に生まれた「無印良品」(ランキング30位に初めて登場)と併せて日本発の商品として、世界に発信する企業としてさらなる躍進を見ることになるのだろう。
いずれにしても、これらの動向は、日本企業の試金石となるもの。その過程を注視し体験として学び、知ることがデザインにとっても重要なのだと思っている。
                         (2012/3・31 記)
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参考文献:
・「一勝九敗」柳井正 新潮社
・「成功は1日で捨てされ」柳井正 新潮社
・「ユ二クロ症候群」児島健輔 東洋経済新報社