NUDNimageNUDNとはimageID/PD分野についてimageお問い合わせ

image
partitionホームpartition芸術学部情報partitionデザイン学科情報partition学生作品partition卒業生作品partitionリンク集partitionメールマガジンpartition
image

■清水教授のデザインコラム(S36年度卒)日本大学大学院/日本大学芸術学部教授

清水教授のデザインコラム/連載 - 1(10/10/2002)

『自然に学ぶカタチ・・・』

緑がひときわ鮮やかに輝いて見える雨あがり、小枝の先にある数葉を見ながらスケッチブックに鉛筆を走らせる・・・。葉の揺らぎに風を感じ、そのリズムが心地よいのだ。旅先ではよく樹木や草花をスケッチする。或いはカメラを向けて、その彩り、造形の見事さ,感動をとどめておくことも・・・
ナポレオンの専属外科医の館であったというセーヌ河畔のホテルに数週間滞在したことがあった。
ルーブル美術館からの帰路、近くの店で大きな洋梨を2個買い求めた。部屋に飾られていた植物画、ヨーロッパではよく見かけるボタニカルアートに習って描いてみるつもりだったのだ。鉛筆を走らせ、カッターで二つ、三つに切りきざむと不規則ながら曲線が魅力的だった。さらに細かく観察してみるといくつかの種を包むような滑らかな淡い色の渦状の曲線、その形や構造が実に美しく、面白いものであった。
翌日にはまた落ち葉を数枚拾い観察・・・。それにしても、自然が創り育んだ森羅万象の造形物にこれほどの感動を覚えるのは一体何故だろうか?と鉛筆を止め素朴に考え込んでしまったものだ。
デザインを志した学生時代、教えて頂いた山脇巌教授にバウハウスの教育にも見たデッサンを、対象物を正確に観察することを学んだ。さしたる意味もわからなかった様に思う・・・。
身近にある「樹木」や「りんご」「みかん」「魚」や「動物」など等、自然に学んだものは実に多かった筈だ。特に当時としては数理的な正確さの造形物を教材として見せられることも多く、その仕組み、色や形状には驚かされ自然物にある法則性を学ぶことを意識させられたものであった。
デザインは自然に学ぶことを意識しながらも、人が創造するものとして、その生産的造形の可能性、人為的形状をその素朴な機械をとうして作り出すこと、考えるものであったように思う。
様々な与条件に応える構造、機能を具現化する形態は抽象化が要求され秩序ある形態をを探るものでもあった。
それからの40年余、実に様々な問題に、プロジェクトにも参加し、造形化にもチャレンジしデザインした。独創性を獲得するためには、その可能性を極力多く発想することを自らに課した。
曲がりなりにもそれらのプロセスには満足もしたし、人々に評価され、喜ばれたとも思っている。
しかし、自然に対峙しそれらの未熟を知ると、無力感も大きい。機能内容は異なるにしても自然の造形、その数億年、数千年をかけて創り上げられた「形」の妙に、「仕組み」の神秘性に感嘆し、その多様さにも恐れ入るからである。
私が、そんな少し謙虚な年代になったのかとも思う。
汲み尽きる事の無い自然の営みから生まれるその造形の魅力は、リアリズム芸術を支えキヤンバスを埋めて離さないテーマとして芸術家の前に立ち塞がっており、人々の感動を得ようとその技術を磨くのである。
人の本質に触れるものなのだろう、その自然を、樹木や草花を素材に「金器、銀器」の器を飾る職人の技術、その究極とも思える造形力にも感動している。
中世貴族のものであろうそれらは職人の技を数代、数百年にわたつて研ぎ澄まし営々と継承したものの結晶であることを思い知らされるのである。
強い光線の中に浮かび上がる器、魅せられた自然の造形物、その流麗な曲線、曲面を繋いで華美な造形、装飾様式の完成度の高さ見事さにもただ、ただ感動である。
ところで、不定形であり無秩序と見られていた自然の造形物もフランスの数学者べノア・マンデルブロの提唱するフラクタル理論によって、その秩序、法則性が明らかにされ科学的に解明されようともしている。
電脳と言われる時代、それでも自然は人類の母胎であり永遠のテーマとなるものである。


■清水教授のデザインコラム/連載 - 2(11/01/2002)

『変人=異能人の時代へ』

なんとも親しみのもてるノーベル化学賞学者、田中耕一氏の登場である。
その画面からは生真面目で誠実な人柄が伝わって、思わず顔がほころび優しい気持ちにさせられるものである。
’49年湯川秀樹氏が「中間子理論」によってノーベル物理学賞を受賞、敗戦に自信を喪失した日本人を勇気ずけるもので、以来の12人目、前日の小柴昌俊氏に次いでの快挙でもある。
博士号もなく、留年をし、ソニーへの就職も面接で落ちたという43歳のサラリーマンには経済低迷の同世代サラリーマンを勇気付け、身近に感じさせて喜びを分かち合っている様にもみえる。
その業績の偉大さについては門外漢の私にはまだ、余りよく分ってはいない。それでも、かって私が理化学機器のデザインに関わっていたこと、京都にある島津製作所の精密化学機器製品を知っていたというだけでも殊更に親しみはあるものだ。
「たんぱく質分析の新しい手法原理」の発見、その応用された機器を使用することでガンの早期診断が容易になるものらしい。その製品「レザーイオン化質量分析装置」は開発者自らの売りこみ、営業回りにもにも実績が無いと1台も売れなかったらしい。その後、まず売れたのがアメリカの研究機関であったということもこの種開発品が認められ始める定石でもある・・・。
27歳の頃の実験で迂闊にもおかした二度の失敗、その「失敗」が偉大な発明に結びついたのだという。しかし、その「失敗」を生み出したものは、淡々と、しかし、極めて忍耐強く続けられた実験があってのこと・・・。
実験があり、失敗が有り、そして成功のヒラメキが生まれる!
このプロセスは歴史の中にある数々の発明・発見の歴史に見られるものであり、示唆し教えられる事は変わることのない事実である。
その報酬が1万1千円であったというところも微笑ましい。
我が国の貧しい研究環境の中でも黙々と仮説研究の実験に、ひたすら無心に没頭する日本人研究者の姿に好感が持てるからである。
これも、ノーベル賞クラスといわれている「青色発光ダイオード」の開発。その報酬の低さ、研究環境の居心地の悪さを逃れてアメリカ、カリフォニア大学教授として頭脳流失した中村修二氏、その発明者としての権利を争った裁判は敗訴となったが、我が国の研究成果、人材確保の在り方への問題提起となって大きいように思う。            
それにしても対照的、日本人的な人柄として映る田中氏、中村氏が提起する問題を浮き上がらせて見せる効果もあって、一層考えさせられるのである。
それらの背景があって企業としての待遇にも困惑している・・・とか。取り敢えずは役員待遇フエローへの特進。

我が国の課題・・・
 しかし、いずれにしても有能な人材を繋ぎとめておけない環境、これは単に企業の問題ではなく我が国の戦後体質そのままで今日を迎えたというところが問題でもあったのだ。
模倣を改良・改善?とすり替えることで良しとした我が国の戦後体質も、時代が大きく変わっていることを強く認識せねばならない。日本が世界経済の第一線に踊り出た時点から欧米諸国からはライバルとしてみられており、また後進国からは、その一挙手一投足を注視され、倣うべき先進国と見られていることを自覚しなければいけなかったのである。
遅きに失したきらいは有るが、しかし、近年急速に言われ始めた「知的財産権」の権利を守ろうとする法的措置に、どうやら社会的な認識も高まりつつあるのが救いだが・・・。
「見える」経済効果、効率のみを評価するのではなく創造性を尊重し、独創性を高く評価、自負するする社会のコンセンサスが重要なのである。
そして、国や大学、企業において人材を繋ぎ止めておく在り方の整備を急いで欲しいものである。
その人材活用先進国、アメリカに習い、その魅力を十分に分析すべきだろう。勿論、そのことは多く理解されてはいる事だが・・・。
これも21世紀、我が国が再び世界に飛躍する為の緊急課題の一つでもある。
何時も均質化、平等主義が言われるのは、能力ある者の意欲を失わせるし無能者の模倣を許し、いたずらに権威主義がはびこる事にしかならないからだ。
アメリカを超えて能力と意欲あるものが、生き生きと働く条件を整え「目標」を与えて欲しいものである。アジア圏に止まらず世界の優れた人材を魅了する「創造」の国、科学・芸術国家を目指すべきであろう!

変人=異能人?
ワンパターン、ワンフレームの生活行動圏をのみ良しとする我が国の価値観。その評価からは計れない人をヤヤ蔑視する意味合いを含めて「変人」と呼ぶらしい。
しかし、多くの「変人」がいて、それが普通であるといえる環境こそが創造的な社会であるという事が出来るし、我が国の未来が約束されるものなのである。
デザイナーもまた、皮相的なだけではない「変人」が、「独創者」「異能人」が現れることを期待したい。今、我が国の命運を賭けて舵取りをしている人も「変人」と言われている、私はその変人政治家に一貫して期待している。
「変人?」とはまた、鬱積する常識を突き抜けていく強固な意志の人でも有り、優れた芸術家、デザイナーに共通する特性でもあった。
果敢に挑戦してみよう・・・。 失敗を恐れるな!
失敗を恐れる事が日本の模倣体質を助長しているし、「独創」を生みがたい環境にしているからだ・・・。
逆説的に言えば「失敗」が次の可能性を生み、「成功のヒラメキ」を誘導すると言うことでもある。
(12/Oct,/2002 記)

その後のスーパーサラリーマン氏の報道、その動向には少なからず驚かされるが、まさにに変人?の真骨頂を見る。その頑固なまでの「生き方」にも多く習いたいものがある・・・。
その文化勲章の受賞、併せて、インダストリアルデザイナー柳 宗理氏の文化功労賞受賞の報道に明日の夢が膨らむ思いでもある。OB諸君の活躍にも期待したい!

(31/Oct,/2002 記9)


■清水教授のデザインコラム/連載 - 3(11/12/2002)

 『中村修二』
もう一人の変人−−悔しさをバネに・・・

 余りにもドラマチックなノーベル賞受賞者田中耕一氏に対して青色発光ダイオードを発明した中村修二氏。私には興味深く、示唆されるものが多い人物である。

 氏は徳島大学大学院(電子工学)を修了、京都の大企業に内定していたが子供が生まれる事で地元(人口5万人の阿南市)の化学薬品メーカー日亜化学に就職する。配属された開発課スタッフはわずかに4名、LED素材となる結晶の開発を命令される。予算も無く、実験装置すらない殺風景な研究室で独りその装置ずくりから始める。来る日も来る日も、溶接作業の連続で「電子工学の修士を出て溶接職人か!」と、自分の人生はこのまま終わるのか、と。
悩みながらのも6〜7年が経過、さすがにその溶接技術は神業とも言われるほどに熟達した。何事にも徹底する性格、職人肌でも有ったのだろう。その間には実験装置が吹き飛ぶような爆発、実験室の白煙が4、50m先までも噴出し周辺を驚かせた大事故も。が、その爆発も回を重ねると「ア!またか!マア〜無事、生きてるだろう・・・」と驚かなくなった、と笑う。
片田舎の無名の零細企業、電話でのカタログ請求や計測装置の発注、問い合わせにも怪訝な顔をされ、まともに送られても来る事が無かった。会社の規模、場所、知名度などから判断する、いかにも日本らしい話しではある。その苦難の取り組みも10年、赤、紫ののダイオードの既製製品の商品化には成功した。しかし、その無名企業の売り込みも相手にもされず実績を求められ値下げを要求される事だけであった。社内、外まさに四面楚歌、屈辱と挫折感の日々であった。
しかし、10年の苦節に強固な意志力が培われたのだろう。
会社から与えられたテーマに取り組むだけでは絶対に駄目だ!と強く思うようになる。自らの意思によって青色発光ダイオード開発に取り組む事を決意し、上司に話すが、嘲笑され一蹴されてしまう。「こんな小さな、しかも研究者もいないところで何を云うんだ」と。
しかし、中村は屈しなかった。確信があった。悩みを社長に直訴した。
ところが、社長はあっさりと認めてくれたのである。
田舎の中小零細企業である、のんびりと平穏に生きたいと思う社員、自らを規定し与えられた仕事をほどほどにしてアフター5を楽しむ。多分、そんな社員が多い中で、中村の人一倍の努力を社長は見ていたのである。
毎朝7時に出社、他人と口をきかず、電話や会議にも出ない、ただ、ただ実験装置の改良、研究に没頭し、集中していた姿を・・・。
夜も日も無く働き、休むのは正月だけという、この型破りの社員は「変人」と呼ばれていたことも・・・。
1988年、フロリダ大学への留学を認められた1年間は「悔しさ」をバネにした次への充電の時期だったという。実力主義のアメリカでは博士号も無い、まして発表された論文も持たない研究者など相手にされないからである。
企業秘密で発表を禁じられる日本企業の事情など理解される由も無かった。「悔しかった」と述懐しその「悔しさをバネにした」のだとも言う。
帰国後、冷ややかな周辺の目を意識しながらも執念の実験を続けた。
'92年、微かだが青色を発光するダイオードが出来るとこれまでの投資を回収しろ、商品化するんだ!と責められる事に。が、会社のそんな圧力にも中村は妥協する事が無かった。完全な商品にするまではと・・・。
しかし、アメリカでより難しいと言われるレザー開発で青に近い青紫が開発された。勝負は終わった!と衝撃を受け、落胆したことも・・・。
しかし、その6ヶ月後、これまでの100倍もの高輝度の光を発するダイオードを完成、発表した。
その製品に素早く反応し、引き合いを寄せたのもアメリカであった。日本の反応は殆んど無かった、とも言う。
メジヤ―のスター並みの年俸を提示して誘う企業を含めて十余の大学・企業からのヘッドハンテングも実に素早いものであった。
積年の悔しさから開放されるその魅力、新たな研究環境を求めてカリフォニア大学を選び永住を決意する。勿論、日本のハンテングは0。
結果が見えない研究に注ぎ込む事に、当時の開発の常識で主流と言われた素材を敢えて避けたと言う非常識、は社内で、まして権威ある?学会で理解される筈は無かった。
「こんな田舎の零細企業が何オするんだ!」極めて常識的な判断、周辺の目は冷たかった。その「悔しさ」は「なにくそー、いまに見てろ!」と言う闘争心に、一途な研究に邁進させる動機ともなった。
優秀?な人材を持つ世界の大メーカー、大学研究機関が20年余の開発競争を繰り広げた青色発光ダイオードも無名の地方企業の一人の孤独な研究者の戦いに栄冠を与えて一応の終止符が打たれた。その青の組み合わせによって光の3原色がそろい1600万色もの色彩を可能とし、無限の用途を広げるものに。
運が良かったのだとも言える、しかし、その「運」を引き寄せる努力、集中力があって可能となるものである。勿論、「常識」と言う圧倒的なバリアーを打ち破る強靭な意志力が要求されるのである。
また、全く無為、無益と思えた装置作りのための溶接作業も、実は発明に役に立ったと述懐する。
失敗を繰り返す中で何かを感じ取る力「勘」を体得したのだと私は考えている。
論文を読み、理屈を理解したからとダイオード製作に取り組む者も多いのだが未だに造れないのだとも。
前にも述べた「失敗」が成功の「ヒラメキ」を誘導すると言う事でもある。
この発明・発想のプロセス、その全ては私達のデザインのプロセスと重なるものがあると思っている。
ノーベル賞サラリーマン田中耕一(43歳)のしなやかでマイペースの一徹さ。ノーベル賞に最も近いサラリーマン中村修二(48歳 現在は教授)の逆境に堪えた不撓不屈の強靭な精神力、一見対極と見られる二人の偉大な変人も発明者として共通するものがじつに多くデザインアプローチにも教えられ、示唆されるものが多い。
                             ('02/11・3記)
この稿を打ち込み終えた時、やれやれと新聞(02/11・5 読売)を開げた。とたんに「科学こそが創造的」という大見出し、ノーベル賞学者を囲むフオーラム予告の誌面だ。その「テーマが毎年創造についてである」ことは日本故であるとノーベル物理学賞江崎玲於奈氏、数年前のコメント。「アメリカでは当たり前のこと、問題にもなりません・・・」とも。江崎氏はソニーからIBMへ、その後、筑波大学、芝浦工大学長という初期の頭脳流失組みでもある。
「常識を覆す発見をなしとげる秘訣は?」の問いに、「一番重要な要素は運がいい事です」と、「確かに、訓練を積み、物事に集中し続ける努力は必要です。誰でも興味あることには情熱を傾けて取り組む。その時、発見が有るかどうかは運が左右するのです」と・・・。例の狂牛病に関わる「異常プリオン病」発見のスタンリー・プルシナー カリフォルニア大学教授の答えである。
確かに!「運」を引き寄せる精一杯の努力、挫折、苦悩が、そして、熱中してこそ初めて「運」をまつ事が出来る。
幸いな事にデザインは、その努力、それらのプロセスに習えば「運」を待つまでも無く「より良い答」を引き寄せる得る十分な条件がそろうものである・・・。

('02/11・5追記)


■清水教授のデザインコラム/連載 - 4(12/05/2002)

『魅了するデザイン』

「イタリアでは、世界をマーケットとしながらもまずは100個、200個という少量を生産する、そんな規模の企業が多いから出来るのです」10月に行われた「イタリアン・デザイン・ワールド展」のプロジェクト担当マッシモ・イオザ・ギーニ氏の講演会は中々の盛況でもあった。
氏はメンフィスのポストモダーン運動にも参加したイタリアを代表する建築家である。
折々に私達を驚かせる大胆で奇抜なデザイン。わくわくする様な楽しさは、特に我が国の若いデザイナーの共感を得ているようでもある。
それとは対照的とみられる我が国のデザイン。大量生産を前提としており極めて大きな資金を投下する、リスクを回避するきめ細かな条件はデザイナーのみならず企業を上げてクリアーすることになるのだ。デザインされる製品は一人デザイナーのものではなく、企業の盛衰を賭けたものでも有るからだ。
当然、デザイナーの<思い>は薄れ、失われかねないことに・・・。満たされぬ思いは欲求不満をつのらせ、イタリアのそれをを羨ましく思うことに。
しかし、その日本的なリスク回避、多層のフィールターを持たないデザインは、かなり危ないデザインも多いのだ。
また、「イタリアのデザイナーは市場のニーズが顕在化する前に思い描く事が出来るのです」といい、デザイナの能力は市場ニーズの予測と創造性に強い自信、イタリア人らしい自負心を見せて語るギーニ氏。さらに「ユザーとのコラボレイト」という、市場の反応を見ることで、その「モノ」の生産を継続するか、止めるかを判断しリスク回避をしているのだという。
「日本人はよく真似をすると言われている様だが決してそうではない・・・と私は思っている。」とエールをくれたマッシモ・ブオノコーレ氏(貿易振興会東京事務所副所長)だが・・・。
現代の先端的製品の多く、自動車、精密光学製品、家電製品等など大量生産品による世界的な市場への拡販はあるものの独創的な、日本独自の製品は無いのでは?といわれている、そんな気分でもあった。

ユーモアを生む・・・イタリア
 ブルノ・ムナーリを囲み談笑した学生時代、オリベッテイ社を訪問した時のマリオ・ベリーニの話、DOMUS誌にロドルフ・ボネッティの置時計、ポータブルテレビや多軸ボール盤の見事な造形を見たときの感動!
「日本ではギリシャやローマ彫刻をデッサンしデザインを学ぶが、あなた達も同じ様に・・・?」と講演の席でジアンカルロ・ピレッテイに質問をしたことも。
'66年には初めてヨーロッパ諸国を車で2ヶ月余、ほぼ2周した。まだまだ日本人旅行者が珍しい時代でもあった。
イタリアでは、あの「太陽の道」を北から南、南から北へと縦走した。ローマのコロセオ、ナポリ湾に臨むポンペイの遺跡、ベニス、フレンツエ、ミラノのフィアットの自動車博物館、レオナルド・ダ・ヴィンチ博物館・・・。
古色蒼然とした建物が連なる都市。
半身を乗り出し手を振り上げてがなり合うドライバー、なにかあったのか?
しかし、そんな事にはお構い無しに突っ込んでいくフイアット、瞬く間に交差点は埋め尽くされた。決して譲らず、謝らないのだとか。喧騒・・・。
家具や洋服、食器、用品を飾るモダーンなショウウインドウが一際明るく眩い。そんなカルチャーショック!27歳の若者には強すぎる刺激が脳裏を突き抜ける、興奮の日々でもあった。
我が国とは余りにも落差が大きい時代を私の脳裏は確りと記憶しているのだ。
ユーロ圏で見る製品の多く、そして、この展示会場に選ばれた製品「銀の水差し」「照明器具」「水道のノブ」「食器」など・・・。それらの多くが形状の特異性、非生産的、芸術的、感性的、そして高価であるという共通性を持ち、当時との40年の時間差を感じないのだ。
そう云えば細江勲氏(本学理工学部OB、イタリアで活躍するデザイナー)との話しで「5年、10年はイタリアでは最近の事なんです」と言い笑った事を思い出した。
時間に対する観念は日本とは明らかに違うものだろう。
数千年、数百年を意識させる、まるで博物館のなかで暮らしている彼らには、この4,50年ですら大した時間ではないのだ。遊び心一杯のデザイン、楽しくやろうよ!

短絡を求めた・・・日本
 日本の戦後から今日まで、そのめまぐるしい変容、激しさ・・・。
「紙と木」による文化は、常に仮設的な生活環境を、現在を、現在進行形をのみ意識させたものになって本質を見失っている様に見える。
先端科学、製品開発のスピード、数年、数ヶ月で交換する携帯、24時間のコンビニ、数分間隔のJR、数年で壊れそうな家具、2,30年の住居・建築・・・。私たちの生活の中に数百年、まして数千年を意識させる時間は無い。
戦後の「拙速な」「短絡な」生き方、「早い」「速い」「短い」ことをのみ善しとする今日の価値観、そのためには模倣する・・・。短絡に独創は無いのだ!

楽しく独創的なイタリア?
 企業組織のしがらみに囚われず、発想の条件からも解放されたデザイナーの感性は、モノの概念にすら囚われることなく可能性を広げているようにも・・・。
生産される50パーセント以上が輸出され、世界の主要都市のアンテナショップ「ブランド・イタリー」のウインドウを飾るものに。ユザーは生活にこだわりを持ち、フアッションリーダーイタリーを信奉する人々でもある。
確かに少量生産がそのことを可能にしているのだ。

デザインは二極化する
 そういえば、この不況感が蔓延する中で続々と誕生している高級ブランド店「ルイ・ビトン」「グッチ」「プラダ」「シャネル」「ダンヒル」「フェラガモ」「エルメス」・・・。
世界有数のお得意さんでもあるという、ブランド消費大国日本!
本当に不況なのだろうか?とも思う。
この事については様ざまな分析が有り、意見もあるようだが金持ちが持つものを持つことで「豊かさ」を実感したい、日本人的性向でもあるのだろう。
高級ブランドのデザインはユーロ圏で・・・。中級や普及品、未来を志向するハイテク製品は日本が、そして、歴史の流れに従えば、やがてアジア諸国、開発途上国へと移行する。
既に我が国のデザイン、メイド イン ジャパーンも高級ブランドを指向し、優れたデザイン、高品質を持って生活の真の豊かさを求めるものに・・・。
勿論、これまでのノウハウを伝えるデザインが生産の場を選び、移しながら世界市場を占めるものに。
この二極化は一層鮮明になるだろう。
                       ( Dec,1'02記)


■清水教授のデザインコラム/連載 - 5(01/01/2003)

「プロジェクトX--世界一売れたスポーツカー」

「風の中のスーバルゥ・・・、砂の中の銀河〜」プロローグ。この曲が流れ、映像が重なる。その何篇かを見る事が出来た。
すっかりその曲を憶えてしまったようだ。私も勇気ずけらる曲だった!敗戦の廃墟から、世界屈指の先端的、工業先進国としての地歩を創り、優れた技術、先端製品をはじめて、創り上げた人、技術者達の苦闘のドラマ・・・。
直面する障害を乗り越え、挑戦する人々の姿に、発明や開発の現実に感動があった。
すっかり自信を喪失している我が国。その起点に立ち返り、勇気を取り戻したいものだ!
その物語は、富士通の「コンピューター」、カシオの「デジタルカメラ」、富士重工の「スバル」、日産の「フエアレデイ―Z」等など・・・。
とくに、「フエアーレデイ―Z」の開発は興味深いものであった。工業デザイナーが主役として登場し、私の敬愛するOB松尾良彦氏がその主役であったからだ。

デザインの夜明け(図案・意匠からデザインへ)
 
その当時、我が国のデザイン教育は、図案、意匠系の教育が主流であった。
日本大学の美術学科、特にデザイン系はバウハウスに習った新しいカリキュラムが組まれており、漠然とだが次代を予感したものだった。時代の先端を行くのだ、と自負するそんな学生も多かった。バウハウス時代の作家にも傾倒していた。
その授業、山脇巌教授(バウハウス/デッソーの出身、当時の主任教授)を中心とした幾つかの実習・基礎教育課程を終えるとVC=ビジュアル・コミニケーシヨンコースとPF=プロダクト・フォームコースに分かれることになる。

その頃の実習・・・
 
古ぼけた木造、2階建ての校舎が立ち並ぶキヤンパス。
その頃の芸術学部がおぼろげに私の脳裏に浮かび上がる。
その一画、練馬病院寄りにそのアトリエがあった。
レモンイエロウに塗り込められた平屋一戸建て、PFコースの2年から4年生が同居したアトリエであった。
日本の工業デザインの草分けでもある小杉二郎先生が年に数回、松本文郎先生が毎週その学生達を指導した。学年でテーマは異なったが、時には全員の講評会があった。
冬にはダルマストーブを囲み、コッペパンを焼いて食べたりもした。バターピナツは最高だった。学科やコースに関係なく、モノ造り、車やバイク好きが集つていた。賑やかなサロンにもなったものだ。
そんな中に松尾良彦もいた。向こう気の強い、意気軒昂な先輩だった。
その一級上に長坂亘、石原堅次、倉重秀夫、奈良謙など・・・。後に企業、社会の第一線で活躍する、そうそうたるメンバーがいた。
ID卒業生名簿に、一期生としているのは、この学年からである。
ヤル気も向上心も人一倍あった。松尾はよくそのグループと行動を共にしていた。
その部屋の最下級生が、私たち・・・。体育会系では無いが1目も、2目もおく先輩の前では、小さくかたまった存在であった。
世界デザイン会議が東京ではじめて開催され、世界の各地からデザイナーが来日した。
併せて、関東の美大(デザイン系)が連携し、デ学連=デザイン学生連合が出来る、という時代でも合った。

夢はカーデザイナー・・・
 
36年4月、彼は予てより望んでいた日産自動車・造形課へ就職した。
我が国では自動車ブームが始まろうとしていた。
日本企業は何かと生きる道を探り、市場を広げようと苦労していた。世界を目指すという助走の時代でもあったのだ。
1958年、日産自動車もその本場、アメリカに乗り込んだ。
その陣頭に立つのが、片山豊であった。
日本とは、かなり違う、アメリカ大陸での売り込みは筆舌に尽くせないものであったろう。
極東の島国、敗戦国が持ち込んでくる自動車に信頼を寄せるものなどいないのだ。
この広大な環境を、寒冷、熱波の気候を、高速のハイウエイを、そんな長時間を走らせたことの経験、知識すら無かった。そんな国産車での挑戦でもあった。
ある朝は、冷え込んだエンジンにやかんの熱湯をかけ、エンジンを始動させる。そのために走り回った。
砂漠地帯ではオーバーヒートし、ハイウエイでは風圧でボンネットが飛び上がった。
イタリアやフランス、ドイツなど、世界の名車が集まるアメリカでもあった。
その未熟な車、時代遅れの陳腐なデザインの日本車には弁解の余地などなかった。
片山豊の努力も空しく、販売はゆきずまっていた。
そんなときに<Z計画>と呼ばれた開発がはじまった。
「庶民の為のスポーツカーを作る」片山豊の提案であった。

Z計画はじまる
 そのプロジェクトに集められた人々、意匠課主流を外されていた松尾良彦。スポーツカーとは無縁の特機事業部門の技術者達8名。ナレーシヨンで言う、日陰部署の集団である。
その当時の社会、企業には学閥があり、守ろうとする社風があった。
或いは、単なる上司の権威、感情的な支配も有った。気に入らない奴、出過ぎる奴は外す・・・。
それでも国内市場では作れば売れる、手探り時代のお手盛り経営でもあった。
「護送船団方式」と言われる企業組織。組織の意志に添わず、従わ無い者を外す事で職場の「和」を保つ、という大義名分もあったには違いない。
しかし、人は往々にして、立場を守ろうとする保身体質を混同させるものだ・・・。
今日、我が国の政治経済の混迷、国際化の遅れは、それが一因であるとも言われている。
そのドラマは、しかし、彼らが決して落ちこぼれではなかった事を捉え、再現していた。
まさに、いま望まれている、そんな異能人、異能集団であったのだ!

夢をカタチにする・・・
 「いまに見ていろ・・・」そんな彼らの屈辱感と悔しさ、がバネになった・・・。
からだの奥に確りと秘めていた夢、膨らませていたイメージが、カタチになろうとしていた。
スポーツカーに夢を託す、デザイン担当の松尾良彦。
そして、その性能に挑戦し、極めたい技術者の熱い思いがせめぎ合い、競い合って開発は進められた・・・。片山豊の思いをこめた「Z旗」−−突撃せよ!をシンボルとして・・・。

2年後、そのスポーツカー「フエアレデイ―Z」は、緒手を挙げて受け入れられた。
「圧倒的でした!」「全米で大ブームを巻き起こし、マスコミがこぞって「Z」を誉めちぎった・・・」と、いまも、その興奮を隠さない片山豊。当時のアメリカ日産の社長。
苦戦していた彼の夢が叶った時でもあった。
彼ら全ての努力が報われたのだ。
世界の名車が競う、あのアメリカの地で・・・。
それは又、日本のデザインが、初めて認められ、世界に強烈なメッセージを発信し認知させたものでもあった。

このノンフィクシヨンは感動のドラマ、でもある。
あるいは、我が国の貧しい創造的環境を超えて結果を獲得する過程が、感動のドラマにもなるのだ!
幼い頃から描いていた<夢>を、冷たい視線の中で黙々として実現させた、本学OB、松尾良彦氏の闘志。少ないが良き理解者、仲間を得た強運。その意志力に改めて敬意を表したい。
デザインが人々に喜びを、勇気を与えた。
デザイナー冥利に尽きる事でもあろう。
この「フェアレデイ―Z」は、世界の名車と同じ様に、デトロイトのフォード博物館にパーマネントコレクションされ、たと聞いている。
Zの放映は終わつている、がその物語は出版され「プロジェクトX (14) - 命輝け、ゼロからの出発」(NHK出版 定価:1、700)の中に収録されている。

(Dec,27 ’02 記)


■清水教授のデザインコラム/連載 - 6(02/05/2003)

『飛躍の瞬間(とき)』

 ひとつの<カタチ>を求めるために、もっとも具体的なドローイングと言う作業、一体、何度描くのか、何枚描くのか。その物理的な量が飛躍の高さを支える・・・。
ある著名な建築家は、ひとつのカタチを決めるために1,000枚のスケッチをするのだという。様々な条件を捉えて頭に浮かぶカタチを描く・・・。
条件を満たしてはいるのだが、まだまだ、納得がいかない。
単純な作業を延々と続けていく・・・。
そのうちに、ある段階で構想の飛躍、ヒラメキが生まれる。
それが「1,000枚目になるのか、1,001枚目になるのかどうか、は予測つかない」という。
宗教で言われる<行>にも似た過酷な作業である。
あの、大発明家エジソンにしても然り!
偶然に、あの「フィラメント」を発明したわけではない。
そこに至るまで来る日も来る日も、世界から集められた1,000種類に余る素材の実験を繰り返した。
研究室の大テーブルは、いつしか彼のベッドにもなっていた。
が、しかし、ついに満足行く結果は得られなかった。
茫然自失の彼の目に映つたランプの炎・・・。彼は、その瞬間にヒラメイタのだ!
まさに、「99パーセントの汗、1パーセントのインスピレーシヨン」、余りにも有名なエピソードではある。
1,000回にも及ぶ実験、その後に来るヒラメキ・・・。
その間にあるものについては、その瞬間を体感した人だけが知る感動であろう。
前出の建築家は更に語っている。「ヒラメイタ、その1枚にディテイールもプランニングも克明に描ける」のだと・・・。
「そこから、アイデアはとめどもなく生まれてくる・・・。」とも。
が、「それ以前の1,000枚の中には、その片鱗さえない」とも云う・・・。
非常に興味深い話しである。ある瞬間に崩壊と誕生がある。
そこに費やされる時間と労力。なんと膨大な事か!しかし、それは決して無駄ではないのだ・・・。

ものを創る苦しみ・・・
 デザイン界に限らず、あらゆる分野において<創造>と言う言葉が氾濫している。
創造は単なる言葉の表現にのみおわってはいないのだろうか?
<もの>を創る。その創造する行為を、その本質を捉えて表現するならば、まさに、「見えないものを見」、「見えないものをカタチにする」、ということだろう・・・。
人が生き続ける社会、また、それを取り巻く環境はいよいよ混沌として捉え難い。
そういう時代にあっても、あるべき方向を見失わず、本質への触れ合いを大切にしたいものだ。
ひとつの「カタチ」や「テーマ」に対する飽くなき追求と謙虚な姿勢こそ、まさに、エジソンの言う99パーセントの汗に通じるものではないだろうか。
また、デザインは様々な規制、時代や人々の要請に応じるものである。
限られた枠組みの中にあってなお、自由な発想と行動する勇気を持ちたい。
ものを創る<苦しみ>なしに、人を感動させ、また、自ら創るという喜びを味わう事は出来ない。

まだまだ、デザインの世界は拓かれ、また、未知なるものである。
それ故に理想とする未来の世界は自分の手で創れる。そう信じる・・・。
いま、まさに飛躍の瞬間を迎えている・・・。
・本稿は’93年、「学部広報誌―Opinion」に記載したもの、10年の時間を経て再び読み返している。
 ここ数回の連載を見て、その内容に重なるものが多いことに気ずく。(Jan,28 '03 記)


■清水教授のデザインコラム/連載 - 7(03/08/2003)

『近況・・・』

近況・・・
 学年末、大学が最も慌しい季節を迎えた。
そんな中で、2日間の入学試験も終わった。
やれやれと、ホッとする反面、合否を分ける判断をせざるを得なかった憂鬱さにも襲われる・・・。
そんな、何か心落ち着かない日々でもあった。

目標に向かい、夢を抱いて集う受験生達。彼等の資質、能力、その差は微妙だ・・・。合否という二極に分けることは極めて難しいこと。
ひとの夢を、運命を分けることになるのかも知れない。責任を感じるし、神経を消耗させられるときでもあった。
そんな緊張の時間を私は、もう数十回も繰り返したことになる。
・・・・
眼を輝かせ、期待をいっぱいに大学生活に向かう新入生たち。
しかし、スタートラインから、徐々に抜け出していくものがいる。
学力やデッサン力、発想力などが特に優れているから、と言うわけではない。
「デザインが好きだー」と思っている、そんな学生・・・。いつの間にか、頭1つ抜け出しているのだ。

デザインを学ぶこと・・・
 学ぶことは決して楽しいことばかりではない。
現実を前にし、その厳しさを知る。自分の思いとは違うことに幻滅する学生も多い。
「デザインは楽しいもの」「楽に学べる」ことと思っていたのに・・・。」と、ある学生。
そんな風に考えているひとには、苦しいことの方が多いのだろう。
しかし、「好きだー」と思っている人には、決して「苦しい」とか、「苦痛だ」とは思わず、夢中になって取り組んでいる。
この世の中で楽しく、苦も無く・・・。「努力無くして、自分の思いが叶う」ことなど凡そ、考えられない。
挑戦してこそ「何か」を感じ、体得する。その「苦しみの深さ、大きさ」に比例して、その「喜び」もまた、大きいもの・・・。
彼等自身の能力の成長、拡充は、その繰り返しによって、確実に得られる。
その「喜び」が何にも増して大きいものでもあろう。
(2003/3・1 記)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

卒業制作--デザインを、初めて体得する?

最終学年。彼等が学んだことの集大成といわれる卒業制作。
自分の「思い」を具現化し、カタチにするという試練を課せられる。
挑戦する意志が見える・・・。日頃、取り組む「課題」とは明らかに心構えが違うのだ。

苦しみ、必死になってデザインに取り組む・・・。
失敗!落胆と失意の中で制作を終わらざるを得えなかった学生も。
そこには、凝縮された人生の悲喜劇も。長い人生の中では、その何れもが貴重な体験になる。
「必死さ」、「苦しさ」は、そして、「悔しさ」は、次への飛躍の大きなステップになる。
「夢」や「目標」を達成するのは自分自身、「ヤル気!」、「挑戦する意志」による。デザインを「好き」になり、「愉快」にやる、その心構えが何よりも重要なことだろう。
・・・・
新宿の『オゾーン』で開催された卒業制作展。
最終日には総長、学部長、事務局長を始め多くの大学関係者もご来場。学生への励まし、貴重なご意見もいただいた。
苦しみながらも成し遂げた彼等。一際大きな喜びでもあったろう。
好評であった卒業制作展も終わった。企業から数点の製品化の話しもあって期待されている・・・。
・・・・
我が国の「モノ造り」、その「精神」が失われようとしている。
モノを造ると言う行為、単なる経済効果だけの問題ではない。
「モノ造り」の喪失は、「生」のリアリティーを失なわせ、発想の確かさを、美意識をすら失なわせかねない極めて深刻な問題でもある。 
人間性からますます遊離する感性・・・。
ユニバーサルデザイン時代のデザイン行為に危機感をすら与える。

いま、失うものの大きさに気付き、その復権が叫ばれている。
人としての感性。思いやる優しさを持ったデザイン・・・。
デザイナーとしての独創性。豊かに発想する力・・・。
そして、更なる「夢」へ向かって欲しい・・・。卒業生諸君の前途に期待したい!

(2003/3・7 記)


■清水教授のデザインコラム/連載 - 8(04/12/2003)

「夢」に挑戦するのが豊かな人生・・・
        −−「10代のアンケート」から。

 近頃、「夢」と言う文字をよく目にし、耳にするようになった。
巣立ち、また新たな旅立ちの季節なのだ。
「夢に挑戦しろ」、
「夢もって生きましょう」、
「夢を・・・・」
しかし、現実は、「夢すら見ない時代だ!」という。
厳しい、我が国の長引く不況。閉塞感がそう言わせているのだ。
大分前の新聞にもその様な大見出しを目にした。「だから夢を見れないんだ!」と、そのせいにしてぼやくものも・・・。ストレス発散のひとつになる。
とは言え、人は誰でも夢を見る、見ることは出来るのだ・・・。
人は夢があるから生きていけるのだといわれている。
その夢が青少年から失われるとすれば、それは極めて深刻なこと・・・。
 *
2月22日付の読売新聞紙面には中学生以上の未成年者、五千人(有効回収数2,942人回収率59%)に実施した「全国青少年アンケート調査」が掲載されていた。
「社会観」や「人生観」、そして、「日常生活」について聞いたものだ。
「日本の将来について」4人に3人が「暗い」と思い、75パーセントが努力をしても誰でもが成功出来る社会ではない、と見ている。
更に質問は、「日本が外国に侵略されたらどうする」というのがあった。
「武器を持って抵抗する」13%、「武器以外の方法で抵抗する」29%に対して、「安全な場所へ逃げる」44%、「降参する」は12%だった。
「どんな人生を送りたいか?」の質問には、「好きな仕事につく」69%、「幸せな家庭を築く」62%、「趣味などを楽しむ」54%、「金持ちになる」32%、「人のためになることをする」30・4%、「有名になる」15・2%、「出世する」13・5%など・・・。
社会の現実に否定的、悲観的な回答が目立つ一方、個人や家庭を大事にすることが伺える。「悲観の10代」の大見出し。
夢より現実・・・。
「内向き世代」大きな夢や希望は抱かない「血の気の薄い」若者達の姿が調査からは浮かび上がってくる、と。
右肩下がりの、元気の無い日本を、大人を見て育った世代であるとも・・・。
上田紀行東工大助教授(文化人類学者)のコメント。
「暗い未来」、「努力しても報われることのないだろう未来」に向けて「夢を持って生きよう!」
「学び、意欲を持つて頑張ろうぜ!」などと、とてもいえないからだ・・・。
「夢」を断たれ、夢を失った青少年が短絡に、自ら生命絶つ者。そんな悲しいニュースも多い時節でもある。
日本国民としての誇りは「ない」33%。
 *
我が国の「生き方の価値観」、単一、短絡過ぎるのではと思う。
「失敗」、「失望」、「挫折」・・・。「辛い」、「苦しい」、「悲しい」こと。
夢の実現はそれらの前提が常にあることを学ぶことが必要なのだろう。・・・。
そして、その次に「喜び」があることを「信じる強さ」、「逞しさ」をつくるべきなのだろう。
 *
現実というものは、厳しいものである。
生半可な気持ちでは実現出来ない。
その厳しい現実があり、困難があるから「夢」なのである。
簡単に、誰でもが実現するのであれば、そんなものは「夢」ではない。
まさに筆舌に尽くせない「困難」への挑戦があるからこそ夢、その実現が「大きい喜び」となるのである。
 *
その「困難」は、「解決すべき問題」と置き換えても良いのだが、勿論、この問題への挑戦とは、日々、生活の中にあるもの・・・。
そう見ると「夢」を実現する事は「問題」への挑戦だと言える。
夢があるから頑張れる。辛いと思うときも我慢が出来るのだ。
 *
困難な「夢」を実現させる挑戦!「問題に向かう生き方」が、豊かな人生でもある、と言えるのだ。
 *
バブルの破綻後、私にはこの厳しい現実の浸透が若者の緊張を生み、良い結果に繋がるのでは、と微かな期待を持っていたのだが・・・。
その期待は裏切られたことになる。
最近の無気力な大人社会の現象は、映してそのまま若者の姿なのだ・・・。
夢は誰でもが持てる。が、しかし、その「夢」の実現を待つが、努力はしない若者も多いのだとか・・・。
 *
戦後の廃墟の中から、明日の見えない中でも無謀とも思える「夢」を追って、必死に生きた時代があった。
あの輝かしい時代を知らない世代によって、世界の片隅で静かに慎ましく生きることになるのだろうか。
寂しく複雑な気持ちだ。
 *
バブル後のデザインも右肩下がりの時代を正面に受け、目標を喪失ている。
若い世代のデザインはいま、残念ながらアンケートに見る「内向き世代」の、それに近い。
我が国の、あの輝かしい経済成長時代。その「未来への夢」は、夢なのだろうか?
再びデザイナ―はその現実に目を見開き、奮起し、我が国の世界へ向けた「活力」を呼び起こすことに注力して欲しいものである。

('03/4・12 記)


清水教授のデザインコラム/連載 - 9(04/28/2003)

鳥虫の目のたび・・・。

 朝もやの中、生駒山がわずかな稜線を見せる・・・。
その左手の奥が京都だろうか?昨日おとずれた八幡市も、その辺りだったような・・・。
あの、エジソンが探し求めたと言う「竹」があった。我が国で初めて「飛行機」を考案した「二宮忠八の記念展示館」や「飛行神社」がある、由緒ある町だった。
二宮忠八は烏を観察し、玉虫に習った「飛行機」を発明していた。ライト兄弟が飛行する数年前のことである・・・。しかし、周辺の理解を得られることもなく、『ライト兄弟が飛行に成功』の新聞を見て失意のうちに研究を断念した、といわれている人物でもある。
手前が梅田スカイビルや大阪駅周辺のビル群が林立する。大阪城もそのビルの影にみえた。
眼下に目を落すと地表をコンクリートの立方体が覆う・・・。その中に丸い大阪ドームもあった。
そこから更に180度眼を転じると大阪湾。ユニバーサルスタジオもその辺りらしい・・・。
その向こうには淡路島や和歌山もおぼろに望むことができた。
そんな街も、また夜の表情は異次元の空間にもなった。
街並みを縁取る灯りやネオンサインの彩りは昼間のそれとは異なる光のパースペクテーブな広がりと地平の起伏を顕わにしてみせる。
ビル群の黒い重なりが、赤色光の明滅を一際鮮やかにみせる。
その、またたきをジーッと見つめているとインベーダーのように徐々に迫ってくるようにみえ、慌てて目をそらす・・・。うねりながら伸びる光は大動脈。ガラスの向こうを音も無く流れる光は途切れることもなく地平の闇にに吸い込まれていくのだ。
そんな暗闇の大都市は常々、なぜか私に宇宙基地を連想させる。そんなフアンタジックな世界でもあるのだ・・・。
ホテルの最上階。200メートル余の高さはあるのだろうか、そこからは360度の大阪の全ての表情を眺めることが出来た。
もう数え切れないほどに歩き回った街。だが、こうして高いところから「鳥の目」をもって眺めてみると、まだまだ、ほんの少し歩いたに過ぎない、と思い知らされたものでもあった。
 *
たびの折々にはよく高い建物を見つけては屋上から街並みを眺めたものだった。
勿論、訪ねる方角、その周辺に当りを付けると言うこともあるのだが・・・。
当時は東洋一の高さ?だといわれた梅田スカイビル。建築家原広司の提案する空中庭園ではパリの新凱旋門を思い出させる何かを感じた。
デフアンスの新凱旋門。その立方体は、デザイン教育の基礎造形?
その数百倍ものスケール、まさに壮大な造形物でもあった。
そこからは遥かな直線上にに凱旋門やシャンゼリーゼを望むことが出来た。
ナポレオンによって計画されたパリ。都市は整然とした美しい石積みの街でもあった。
その都市の塊形は数百年後の今も変わることの無い佇まいを見せている。
今地表を埋めてて広がるこの地、ビル群の乱立を俯瞰するとき、明らかに違う都市の表情を読み取ることが出来る。
 *
地表を蟻のように、虫のように歩き回るだけでは見ることが出来ないが、鳥のように高いところから眺めてみると街の全体が分るものだ。
なによりも広く、より多くを見たという満足感も得られる。
そんな余禄もあるものだ・・・。

「鳥の目」、「虫の目」の発想・・・・

 ところで、大空を悠然と飛ぶ鳥たち・・・。
特に鷲や鷹は飛びながら数百メートル、数千メートルもの先の虫や魚を見つけるのだと言う。動物の中でも特に優れた視性能を持っている。
その目で捉えた像は更に濃く鮮明にする構造を持ち視力は8。人の5〜6倍だとも言われている。
そして、草叢を棲家とする虫の目は余り効率の良い構造ではない。
光を感じる黒い筒を蜂の巣のように集めた複眼は60〜90センチに足りない視力。比較的視力がいいミツバチですら人の100分の1でしかないと言われている。

大空を高く飛び、地上を広く俯瞰する、そんな鳥の視点・・・。
また、草叢を生活圏とする虫のように足下の、或いは、周辺を精細な視点をもって観察する・・・。
そのいずれもが、デザイナー、発想者にとっては極めて重要な事なのである。
たしかに日常性の中にどっぷりと浸かった生活からは新たな発想は生まれ難いものだ。
時には「鳥」になり、「虫」になって街へ出る・・・。 そんな「たび」が必要なのだ。
そこから、これまでには見えなかった<何か>が、必ず見える!
そう信じる「強い心」も必要なのだが・・・。
(2003/4・25 記)

追記 1:「鳥の目」、「虫の目」の観察と発想とは・・・・

 観察し、発想する時のキーワード(学生諸君のために少し詳しく説明する・・・)
鳥のように広く俯瞰する視点を持ち、虫のように足下を深く観察する。そんな視点を持って思考し発想することが重要なのである・・・。
マクロな視点やミクロな視点とも同義。望遠鏡の視点と顕微鏡の視点また、プラスの視点、マイナスの視点。全体の視点、部分の視点。大人の視点、幼児の視点。強者の視点、弱者の視点。非日常的視点、日常的視点など・・・。
木を見て森を見ず・・・。虹を見るためにその中に入ると水滴だった・・・。等、発想が極端に偏向すると間違いを犯しやすいと言う戒めでもある・・・。
一極に偏向しない視点をもって発想するが、一極を徹底して考え、発想することもデザインでは、時として必要であることにも注意したい。
(2003/4・26 記)

追記 2:この稿を書こうと思ったのは17年の時間をかけて開発された「六本木ヒルズ」の話題が出始めた頃。その最上・52階からの展望を映像をとうして見た時である。
アメリカがイラクを攻撃した、その日。私は大阪の超高層ホテルの最上・51階で朝食をとり41階に宿泊していた。
その非日常的な風景が私の目に重なっていたからでもある。
「鳥の目、虫の目」を意識したたびにしたい、と考えたものでもあった。
この稿を丁度終えた、翌朝・・・。
読売新聞(4月27日)に『鷹と蟻の目で追う』と言う大見出しが目にとまった。事件を追う鑑識課員のはなしだった。
遺体を検死し、指紋や足跡を採集し、現場の状況を精緻な図面に記録する・・・。そんな彼らに必要なのは、「鷹の目と蟻の目」だという。
「鷹の目」で全体を見回し、犯人の行動を推し量り、「蟻の目」で地べたをはって「髪の毛一本まで見つけ出すのだ」と言う・・・。
この連休には『六本木ヒルズ』の混雑が予想される。海外への旅を思い止まらずを得なかった人たちにも格好のタイミングでの開業である・・・。私はほとぼりが冷めるまで我慢、待つことに・・・。
東京駅前の『丸ビル』も、開業の数ヵ月後のことだった。
(2003/4・27 記)


『製造業の未来とデザイン活動』追考 〜加藤均君(S47年度卒)へのコメント〜 (9/24/2002)

清水敏成(S36年度卒)日本大学大学院/日本大学芸術学部 教授

加藤 様

寄稿「製造業の未来とデザイン活動」興味深く拝見しました。
全く同感です。
拙文「次世代へのデザイン問題」デザイン学会 デザイン学研究特集号'97 No4に掲載した内容もほぼ同意のものでした。拝見する中で重複する感想を、私の知りうる戦後史、或いは体験的デザイン史を思い返しています。繰り返される歴史の教訓、確かに人の歴史は直接、間接に繰り返され時間を繋いで営々と継続しているのです。
前回のコメントに加えて追考したものです。

戦後教育の問題点

敗戦後の瓦礫の中から、「生きる」ために、ただ、ひたすらに働く、働くこと、働ける事が生きる事であり喜びででもあったのです。「日本人は実に勤勉だ!」と言われているのは、実はこの喜びを知っているこの世代であるからだと私は思っています。占領軍の豊かな物資、体格も目の色も違う外人を見た驚き、ささやかながら覗き見る米欧の風物に大きなカルチャーショツクを受けた時代でもあつたのです。
地理的、或いは言語的にも極東の島国である日本はその情報量が極めて少なかったことです。しかも、当然ながら伝える者の主観が強く働いた加工された情報であり、比較することも出来なかったと言う事も容易に想像できる事でしょう。
その当時は軍事裁判により指導的立場にあった者は第一線を退かされ、或いは、戦犯として処刑されたりという混乱する中で、教育の指針に数十年後、少なくとも50年、100年後の日本を見据えた教育がなされることは不可能であり、考えられる事ではなかったでしょう。
「一億総懺悔」が言われ反戦的、反動的思想が大勢を占め、占領軍が占領政策に都合のよい様に規制したものが「錦の御旗」となり戦後教育の主流を占めたものとなっているのです。
「一億総玉砕」を云々した戦時中の教育が「国家の為に」であった反動で「国家の為に」ではなく、「他人の為に」でもない、自己中心的、個人主義の教育が今日の日本の本質をつくるものとなっているのです。
多様な生き方は共通する価値観を喪失させ家族の意味すら失しなわせて「個族化」を進行させています。
占領国から学んだはずの「自由主義」が我が国のあり方、良くも悪くも今日の日本を造ったと言えるのです。

戦後経済の発展
 戦後経済の右肩上がりの成長は世界の脅威と言われるものでした。
戦後10年はがむしゃらに働いた時代とも言えるのでしょうか「朝鮮動乱の特需」が有り、レイモンドローイに依頼したたばこ「ピース」のデザイン料が150万円と言われて度肝を抜かれた事も。
'56年の「経済白書」には「もはや戦後は終わった」と報告され「冷蔵庫」「洗濯機」「掃除機」から'57年には「白黒TV」「洗濯機」「冷蔵庫」が三種の神器に取って代わり、翌年には「電気がま」がブームをおこした「消費革命」と言われる時代でした。勤勉な人々によるモノずくり、生産はまさに順調、高度成長への始動でもありました。'69年にはGNP世界2位に。
そして自動車生産もドイツを抜きアメリカに次いで世界2位に飛躍した年であり、我が国のモーターリゼイシヨンの始まりでした。
'74年にはあの巨人アメリカを抜いてGNP世界一になった年でした。俄かには信じられないこと、その意味すら分からない事でも有ったのです。
常に学び、倣うべき先進国、強烈な印象であった欧米のかかとをのみ見て走り続けるひたすら働く日本人の集団でしかなかったのですから・・・。
確かに我が国の現実は今日ですら貧しいものです、多くの庶民にとっては夢見た豊かさを実感し、現実として捉えている者など居なかったのです。
当然と言えば当然のことでしょう。
'73年、次いで'79年と二度にわたる石油ショック。生活が石油の恩恵を受けて存在することを知り、俄かに狂乱物価がおこり、省資源が叫ばれるように・・・。
デザイン条件に「省資源」が大きな位置をしめることにも。
ひたすらに働く労働者、デザイナーは勿論、モーレツ社員と言われた世代があって経済大国への地歩を固める一層の経営合理化が図られ乗り越えたものでした。
この時代、目標に向う全社一丸の協力体制、寝食を忘れ、家庭を忘れた人々の日夜のモーレツな頑張りがあったのです。
この危機に対することで企業体質を抵抗力のあるものにしたとも言われています。
しかし、シンクタンクとして世界的なハドソン研究所所長、未来学者ハーマン・カーンによる「21世紀は日本の世紀」と言わしめた時でも、まだまだ殆んどの人々にとっては半信半疑、豊かさを、夢を実現したのだと言う実感を比較する余裕すらなかった、と言う時代でもあったのです。
憧れをもって見つめた欧米の生活の豊かさ、その格差は大きく巨大なイメージにもなっていたからとも言えます。
「夢」、それは遥かなるもの、既に手に入れた等とは夢夢思えなかった貧しい生活、住環境と言う我が国の特殊性もあったのだとも言えましょう。「狭い日本そんなに急いで何処へ行く」と言う交通標語が言い得て妙ですね・・・。
しかし、さすがに「追いつき追い越せ」の意識は徐々に、そして強く人々に浸透したもので、簡単に拭い去る事の出来ないこの世代精神として「根性」にも為ったものでしょう。
バブルの崩壊、大倒産時代、リストラ、道徳観、長幼の序の喪失・・・。
忘れ去られているが、しかし、我が国が世界の第一線にある経済大国と言われる今日があるのも、この時代の人々、今日の高齢社会を構成している方々全ての尋常ならざる努力あってのこと、私は深く感謝せねばならない事だと思っています。

日本のデザイン活動
 戦後、日本経済界の先進諸国に習う洋行は、アメリカやヨーロッパであり経営者を含めて多くの人々がよく視察に出掛けたものでした。
'49年、アメリカの産業界を視察した松下幸之助にはデザインされた製品が一際新鮮に映つたようです。大阪商人であり、後に経営の神様とまで言われる松下は「これからはデザインやでー」と、早速自社内に意匠課を設置したもので、我が国に経営戦略上のインハウスデザイナーが主流となるきっかけともなった様です。
'19年に始まるバウハウスが研究者、教育者、出身者などによって我が国に紹介され、大学教育の基本的な指針となりカリキュラムに反映されています。
実践的なもの、営利的目的からは本質的に遊離したものとして解釈されたものでした。
しかし、企業の経済戦略として導入されたデザインはそんな時代の活動に極めて大きな貢献をしたのです。
しかし、モノを造れば売れる時代でもあり、デザインをする事はバウハウス、デザイン教育、思想とは異なる営利目的行為として解釈機能したものでした。

デザインの模倣成長期
 戦後、経済活動が手探りする中で思想哲学を持たずに育ったデザイン活動は「モノや生活の質」を創造的、本質的に求めるよりも、一刻も早い結果をのみ求める短絡な企業の営利的要求に、より応えるものになります。
勿論、当時は今日的デザインとしての解釈、意味あいのものではなく「意匠」と言い、製品の形を美しくする事を目的の第一義としたものでした。
欧米製品を安く造り売る、事から始まったともいえる我が国の産業界。
−−米欧にあって我が国に無いもの、生きる為→より快適に生きる為の実現は生きる為の手段でもあるのだが「欲しいもの」「売れるもの」を探し求める時代でもあったのです。
当時、ニューヨーク、ロンドン、フランクフルト・・・見本市会場や街の店頭等、製品がある所には「メガネをかけカメラを手にした日本人が走り回っている」と皮肉られ、露骨に追い払われる姿も。ウインドウを覗き込む事すら断られる事もあった時代でした・・・。
盗み見る?と言う卑屈な感情、「模倣」が言われる中、「学ぶ事」「習う事」の意味を考え込んだこともありました。
市場調査はよく売れているもの評判がよいものを分析し、参考にするもの。
企業、経営者にとってはそのまま真似たら楽で早い、投資しないで利潤を得る事が出来る訳で、何よりも失敗が無いことを最優先にしたものでした。
市場競争の戦場では模倣する事に抵抗は無かったのです。
この頃の日本、発展途上国の生きる為の一途な姿も国際社会では鼻摘まみでもあったようです。日本はまだまだ卑屈な時代でした。
純粋な学校教育、意匠教育、そこから純粋に育った良心的?デザイナーにとつては苦痛を伴うこと、精神的葛藤を生み出すものでもありました。
しかし、市場経済の戦場は、それらの効果があってその後の日本経済の爆発的な成長と軌を一つに発展する事に貢献したのです。
そして高度経済の極ともなるバブルの芽を大きく育てる事にも・・・。
'92年にはバブルと言われた経済活動が崩壊し、戦後、戦場デザインのパラダイムも破綻したことになります。
この過程は我が国に於ける歴史的必然でもあり評価されるべき事ですが、その渦中にあったデザイナーは自問し、自らを責め自嘲する方が多いのは残念な事です。
デザインのプロセスは時間経過、社会的要求変化の中で適切に修正していくしなやかな過程であり、それがデザインの本質でもあると考えているからです。

バブル経済後のデザイン
 しかし、経済破綻のツケは実に大きく、未だにその修復の混迷を続ける中で21世紀を迎えたことになりす。
戦後経済を支え、我が国の近代デザインの創始期に参画した世代のデザイナーは、その役目を終える中で高齢化社会を構成する年代に・・・。
良識派を自認するデザイナー、自らのデザイン行為に対しての葛藤と失望、そして反省と否定。
地球規模の変革期にありがちの深刻な混迷はデザインだけの問題ではないのです。
「成熟と衰退、目標の喪失、高齢少子化、産業の空洞化・・・。
競争力を失い国際社会から日本が消える」とまで言われて深刻な状況を突きつけられてもいます。
しかし、バブルと言う異常体験は、その落差を必要以上に大きく感じさせたようです。日本は底知れない不況感に自信喪失状態になり、奈落の底に居ると錯覚もしている様です。

21世紀のデザインパラダイム
 我が国の戦後教育のなかでは為される事が無かったのは創造性教育だと言われています。
小、中、高校教育の中で、或いは教育される事で失われていくとまで言われた発想能力、その貧困さが今日、我が国の大きな問題となっています。先にも述べましたが好戦的?とならないための平等平均値主義?は多様に解釈され、基本にプログラムされた教育はわが国の官僚、政治家の発想の貧困を生み、国内的な権威、価値観をのみ良しとした風土を作り上げているようです。
そして、当然のことながら「想像,創造する力」こそが人として何よりも重要な事、生きる力でもあるでしょう。勿論、「人々の営み」、その「より良い在り方」を創造する力はデザイナー資質の大きな部分を占めて重要である事は今更に申し上げるまでも無いでしょう。
今、一部の識者の提言があり、文部省の教育目標の反省と変換が言われていますが、その実効があるのは2,30年も後になるのではと私は考えています。
「国際社会から日本が消える」のでは、という危惧は昨今の我が国、国際社会の動向の中で信憑性が強いようです。我々自身が思っています。
世界的な不況感が我が国に呪縛を与え、身動きの取れないものにしているのです。
その事を私は極めて深刻に考えています。
2、30年後を待つというのものでは間に合いませんが、それでも既にもはやその呪縛の中で十数年が経過しているとも言える深刻さを見ているのです。

いま、新しい時間を得てデザインの意味が問われています。
フリー、企業デザイナーを問わず個人としての真価が問われ、資質が問われています。勿論、国際的なレベル、諸外国の低コストデザイナーとの能力と比較されるという事もあります。
私も教育の場に居るものとして十数年来、その事について大変心配しています。
しかし、日大を巣立ったOB諸君の潜在する能力を信じています。鋭く研ぎ澄まされた眼をもって観察する能力を持っており、その危機に、多様な問題に立ち向かっている人を見ています。
待つまでも無く自らを研ぎ澄ます努力、その創造の意識をもって頑張つている人が居ました。
OB諸君が他大学に比べても、その高い専門性、能力故に期待され多忙であるとも聞き及んでいます。そのことは、ややもすると高い視点、変化する外の動きを読み取る事に鈍感になり目先の事、或いは独り善がりになりがちです。
当たり前のことですが「独創し」「評価する能力」、「説得する論理性」も要求され、何よりも強い意志と「決断する力」を持つことは必須の条件であろうと思います。
それにしてもホームページ上に見る諸企業の、世界諸地域に活動の場を求めたOB諸君のレポートを嬉しく拝見し情報交流、相互触発の場にと提唱された<NUDN>が意味大きい事を思い、喜んでいます。
併せて、HPを担当・発信している肥田助教授にも頭が下がります。演習教育、学務、雑務、公私にわたる幾つかの研究に・・・と、実に多忙な中でのご苦労に、感謝です。有難う! 私も大いに触発もされています。

加藤 均君の一層のご健闘を祈ります・・・・。

日本大学 清水敏成

E-mail:tshimizu@art.nihon-u.ac.jp