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コラム「創造力の根っこ」VoL.78 (05/9/2015)

色・中間色とカオス(chaos:混沌)」  
                                  
鈴木淳平

白黒や三原色との間に無数といえるほどの中間色が指定されています 中間色は多様性に富む可能性を選ぶ人それぞれに応じて存在する反面、 「…かな」、「…かも」など、中立的で、控えめ、慎ましい話し方流行りのように 画一化されつつある日本社会を感じさせ、中間色と人の話し方などが共通した、 混沌(カオス)に浸かる世の中を象徴する役割のように見えてきます

中間色は選ぶ側の人の心理に大きく左右され、色全体についても同様で、色を選ぶ人に主体はあるものの、客体である選ばれる色とに混沌を感じさせます。

色を選ぶ怖さ
ネクタイとスーツ、服などを着たあと配色にシックりいかなかったり、 ベルトと靴、同系色のトータル・コーディネートを忘れチグハグだったり、 アイシャドーと口紅、化粧品の色遣いがバラけ見映えが気に入らなかったり、 部屋の統一感のないインテリアの色遣いに自身のセンスを疑ったり、 色は遣う人のセンスで、活かされたり台無しになったり、怖さを芽生えさせます。

かつてはマンセルの表色系に代表され色三原色を基本に色相・明度・彩度などで分布された色見本の印刷物から中間色を、パントーンやDICなどで色指定していました。コンピュータの発達・普及でRGBの光三原色によるパソコンのディスプレーに発光する色を指定する併用の時代へと移り変わっています。
 前述の「例のドレス(3月に紹介)」のようにコンピュータでは数百万色に及ぶ色の世界統一が定着しつつも、客観的に同じ色であっても地域や民族によって色の呼び名も色の見え方も異なると分かり、主体である人が画一化されていない現状にホッとしつつ、日本では人の画一化がかなり身近に迫っている怖さと色の怖さとが重なる感覚を禁じ得ません。

デフレからの脱却といわれ
テレビ局の世論調査では、景気の回復に実感がないと答える人が多数を占め貧富の差・格差社会が際立つ現実がみえながら白黒をハッキリつける発言は聞こえてきません。これを中間色の混沌と同等と決めつけるには異論をはさむ人もいるかもしれません。様々な中間色が存在するように否定できない主張と理解を示すべきで、現状認識は混沌としており脱却は幻なのかもしれません。

他人と違うことの恐さ
デフレ時代の負の遺産は、没個性や自発性、独自性が鳴りをひそめ、右へ倣(なら)え!少し悪ぶれれば「みんなで渡れば怖くない赤信号」、従順な人の機械化、画一化された人間像が蔓延し、他人と違うことへの恐さを実感する若い世代が増えたのではないかと感じずにはいられません。

みんなと同じ安心感
幼児教育の現場では、親御さんに渡すメモはみんなと同じでなければ、「どうしてうちの子どもには、他とちがう用紙なの?」、「なになにちゃんちはハートマークなのに、何故うちは星マークなの?」など、教育現場側の親御さんに対する氣遣いはかなりの重労働と聞いたことがあります。割り切ることの合理性を自問自答しながら、親御さん側の教育現場に対する期待に子どもが画一化されることを良しとさせ、親御さんに育てられた子どもも画一化される人に成長することを良しとする、安易な安心感の傾向と感じさせます。

中間色は人に選ばれるのを待っている
多様性に富んだ色の世界は、主体性と個性が尊重される意思決定がなければ、中間色の存在は認識していても、同じ色ばかり好まれ画一化されてしまいそうで数百万色もの色は必要ないのではと想え可能性を狭めてしまいます。
何故この色でなければならないか、何故この色を選んだのか、色を選んだ人の選んだ時の精神状態や、仕事であれば感性の実績、理路整然とした理由、案件の方向性にあった納得のいく説得力が必要になります。
クライアントがいる商習慣では、「決めるのはクライアント」であり、複数のデザインなり色彩を選択肢として提案するのが商業デザイナーの役目と割り切りながら、提案の中から可能性を最大限に感じてもらい、クライアント側から「お薦めは!?」と聞かれれば、自信作を前面に出すことで意思決定を速やかに促すことができます。中間色は人に選ばれるのを待っています。

幻想なのか、絵に描いた餅なのか、無いものねだりなのか
「…かも、…かな」の言い方は、戦後第二ベビーブーム(BB2)以降に生まれた人が苦しんできたイジメによる被害を最小限に抑える言葉遣いと捉えられます。他の世代からは混沌とした、あるいは曖昧模糊(あいまいもこ)とみられてもイジメられるよりはマシであり身の安全を確保できる常套手段として定着したのだと想います。「…かも、…かな」の言い方が一般化し好感度を重んじるテレビ業界やマスコミ、企業インタビューなどに多用されるまでに至り、混沌が常識化した言葉遣いになったと感じさせられます。

多様性に富んだ将来はどこに
「将来はバラ色で、どんな職業にも勉強をしっかりすれば就けます」と教育現場では子どもたちに多様性と可能性を話し聞かせ、信じさせながら、志を具体的にもつ方法や、決める(意思決定)プロセスを教育現場で教えられませんでした。教えてもらえなかった弊害、あるいは教育にそれを求めること自体、その可能性を阻害・排除せざるを得ない教育現場なのかもしれません。
個々人が見る力に目覚め、問題意識と解決策を自問自答できる能力を養わなければ、自分好みの色に光はささず色は見えてこないのかもしれません。