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コラム「創造力の根っこ」VoL.40(8/02/2012)

『おばけ屋敷』の復活 ゲーム時代−1               鈴木淳平

 おばけ屋敷ゲーム:往年の人気ゲームがスマホと融合!おもちゃショーにお目見え…1980年に発売され、80万個以上を販売した大ヒットボードゲーム「おばけ屋敷ゲーム」(バンダイ)が30年以上の歳月を経て復活。…「おばけ屋敷ゲーム」は、すごろく形式のボードゲームで、「力」「知恵」「勇気」という3種類のカードを使って古今東西のお化けと対決。(2012/6/14毎日新聞デジタル)

 くすぐったく、懐かしくまた昨日のようにも回想できる〔自発〕の日々でした。
バンダイの開発部員でありゲームデザイナーでもあった頃を憶い出しました。
1980年代当時、「盤ゲーム・ボードゲームって?」と質問されれば年末年始に遊ぶ〔双六(すごろく)〕と同じようなゲームです、が一般的でした。
同業他社で圧倒的なシェアを誇った『人生ゲーム』のタカラ(現タカラトミー)と、『野球盤』でおなじみ、エポック社が双璧に想えたカテゴリーでした。
『ドラキュラゲーム』、『JALパック世界一周ゲーム』を発売し、『おばけ屋敷ゲーム』を代表作とした企画開発から生産・発売、後追い調査までの〔ゲーム企画開発システム〕にまとめ上げ3年でシェアトップ、カテゴリー〔日本一〕になるまでを具体例を加え、想像力の根っこから〔自発」が芽吹く様子を数回に分け描きます。
途中、寄り道のように感じるエピソードがクドク感じるかもですがお許しください。

経験法則がノウハウに進化させた、必死さが伝わればと想います。

想像力の根っこは、五感からの養分をすいあげ発見・感動の受動・受け身の機能と、理屈抜きの第六感を含めた能動・仕掛け側として自ら情報・刺激を発信する〔自発(じはつ)〕と表現すれば、しっくりくる機能の両方をもっています。

1977年3月22日バンダイに入社し、1か月以上の研修カリキュラムをこなした5月のGW以降に栃木県の栃木市と宇都宮市の中間にある〔おもちゃの町〕、バンダイ栃木工場研究室に配属されました。
東京都台東区駒形のバンダイ開発部に人事異動を命ぜられたのは、20か月を経た1979年1月でした。
その人事異動のきっかけになったと勝手に想っていた理由が以下の通りです。

毎月、企画開発合宿と称して泊りがけのバンダイ開発部全員約20数名と栃木工場研究室部員20数名が栃木工場で会していました。
栃木側の企画開発合宿用アイディアスケッチを歳が同じ金沢美大出身の一期上の先輩と二人で描く担当もしていました。
1978年の夏も過ぎた合宿会議の数日前、宇都宮のゲームセンターで同期と二人でその年にタイトーが導入し歴史的大ヒットとなった『スペースインベーダー』いわゆるインベーダー・ゲームを遊び知り感動と興奮を味わっていました。
合宿会議で、さりげなくインベーダー・ゲームの商品化提案をしたら出席者全員がその存在を知らなかったことに驚くばかりでした。
入社時に、20歳代で活躍し30歳を超えたら後輩にノウハウを教えるのが企画開発員、デザイナーの基本だと教わった理由を想い出しもしました。
2年後の年末までにバンダイ製のハンドヘルド(手で持って遊べるコンパクトタイプ)のインベーダー・ゲームは100万個を超える大ヒット商品になりました。
その提案をしたことが人事異動になったのではないかと想像しましたが、栃木工場研究室室長は、人事異動の理由を「栃木で使いものにならない」と言っていたような記憶もあるので意思決定に参加していない本人には計り知れません。
その約1年後の1979年夏の終わりに、運命が大きく方向を変えました。

『ドラキュラゲーム』を発売した1980年の前年のことです。
バンダイ開発部の先輩諸氏が口癖のように言っていたことがあります。
「おもちゃのアイディアは、遊ばなくちゃ出てこない、動物園へ行ったり、街にリサーチ(便利で重宝な企業用語)に行ったり映画を観たり、外に出て、おもちゃのアイディア・テーマを見つけるのが我々の仕事だ」と。
素直に受けとめ時間を見つけては、率先して外出先記入欄のホワイトボードに、リサーチ、市場調査と記入し、映画館へ行ったことが『ドラキュラゲーム』を提案し、その延長線上になる『おばけ屋敷ゲーム』が生まれるきっかけになりました。

東京勤務の3か月後には、バンダイ商品のほとんどのパッケージ製作の、コンセプト出し、外注デザイン、版下手配、校正、印刷・量産、担当になっていました。
開発部トップのパッケージ担当が人事異動でいなくなるから困る発言に、「私、やりましょうか!」と口を滑らし、間髪入れず「お前、出来んの?」でした。
日芸時代に、印刷の手順を高校時代の友人から即行で習いポスター制作、印刷、納品までバイトでこなした経験が幸いしたエピソードでした。

『ドラキュラゲーム』の企画提案
先輩諸氏の口癖を真に受け実行し、ニューヨークを舞台にした『ドラキュラ都へ行く』(1979年ハリウッド映画)を就業時間中に観て笑っていました。
 ルーマニア、トラシルバニア地方を舞台にした昔ながらの映画と異なり、現代のニューヨークを舞台に、コメディというより非日常の恋愛ロマンとして軽い食事と似て消化しやすい映画だ、と感想しながらタイトルのドラキュラに魅かれたから観てしまったのだと言い訳を頭の中でつぶやいていました。

 数日後、パッケージ担当にはあまり関係ないと想っていた商品企画会議に出席するにあたり、車好きで蔵書4000冊は持つという尊敬する先輩から、「パッケージだけを一生やるつもりか」と言われ、商品企画を提案しなさいと勧められ〔ドラキュラのボードゲーム〕のネーミングだけ提案したことが始まりです。(続)







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『おばけ屋敷ゲーム』1981年発売






























































 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『ドラキュラゲーム』1980年発売