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コラム「創造力の根っこ」VoL.32(12/01/2011)

「アニメ時代−1」                        鈴木淳平

1953年、戦後8年、今から58年前、日本でテレビ放送が開始されました。
開始当初は、アメリカ製TVアニメを輸入し放送していたテレビ業界でした。1963年、国産初となった和製TVアニメ『鉄腕アトム』が放送開始され、現在も続く〔アニメ・ブーム〕を牽引し和製TVアニメ時代を築きあげました。
アニメ時代は、マンガ雑誌連載の人気に後押しされマスメディアの頂点に位置するテレビによって成長してきたTVアニメによって築き上げられました。
TVアニメは、各テレビ局がしのぎを削り、激化する放送局の命とも言える〔視聴率〕競争を生き抜くためのコンテンツのひとつになったと言えます。

1953年から相次いで各テレビ局が開局し、放送権は認可されたものの誕生したばかりのテレビ業界の制作力ではコンテンツ不足を招き、輸入アニメなどを導入することで放送時間を埋めていたのです。
国産・和製ものの人形劇、実写・特撮などが、子供向け番組の主力でした。
戦後ベビーブーマーの駆け足で成長してきた団塊世代と団塊ジュニア世代と共に“頼みの綱”としてTVアニメが誕生し発展してきたことになります。
多くの才能が花開き活躍するTVアニメは、マンガ雑誌からテレビ放送に飛躍し視聴者から多大な支持を受けたコンテンツとして、ゆるぎない安定した視聴率を稼ぎエンタテイメント業界の中心的存在になっていったのです。

TVアニメ前、アンシャン・レジーム(旧体制)
1953年以前は、映画業界による劇場用アニメが主流でした。
映画業界が徐々に衰退していった要因のひとつにテレビ放送が挙げられます。
多くの映画業界関係者がテレビ局に転職し、映画業界の〔伝統〕をテレビ局に継承し、ドラマやコンテンツ制作に関わったことがテレビ業界の発展と衰退を招いたと、賛否両論、意見が分かれるところだと指摘する業界人もいます。
テレビ放送を、マスメディアのエポック・メーキングな革命的技術革新と見なすなら、フランス革命以前をアンシャン・レジームといったようにテレビ放送前と、輸入アニメに頼ったテレビ放送開始直後は、まさに和製TVアニメのアンシャン・レジームといえます。以下、アニメの大雑把すぎる歴史です。
「1892年、『哀れなピエロ』(en:Pauvre Pierrot、フランス)。シャルル・エミール・レイノーによりテアトル・オプティークを用いて上映された、アニメーション映画の先駆的作品。
1917年、1月『芋川椋三玄関番の巻』(下川凹天) 日本最初の劇場公開されたアニメーションの無声映画(フィルムの存在は確認されていない)。
1935年、『のらくろ二等兵』」
と、ウィキペディア「アニメの歴史」にあり、ハリウッド・アニメのコマ撮り(ストップモーション)などもアンシャン・レジームに入ります。

日本の各テレビ局放送開始年(東京主体で記載)
1953年(S28)、NHK(2月1日、受信料600円)、日本テレビ(8月28日)。
1955年(S30)、東京放送(TBS,4月1日)開局。
1959年(S34)、日本教育テレビ(2月1日ANB・NETとして)、1975年にNETがテレビ朝日と社名変更、大阪毎日テレビがTBS系列に移行。
フジテレビ(3月1日)開局
1964年(S39)、テレビ東京(TX、4月16日)、東京オリンピックの年に開局。
わずか9年で東京地上波主要6局が、名を連ねました。

1956年(S31)、NHKの人形劇『チロリン村とくるみの木』(1956年4月16日から1964年4月3日まで)と、TBSから米国からの輸入TVアニメ『スーパーマン』が同じ年に放送開始されたことが興味深く印象に残ります。

2つの『鉄腕アトム』
テレビ放送開始時期、輸入アニメに刺激された多くの表現者・マンガ家は和製アニメへの期待を膨らませていました。その中の一人が手塚治虫でした。
和製アニメの誕生は、手塚治虫が切り拓く、時代の必然でもあったのです。1958年、『鉄腕アトム』が実写で、1年足らず放送されました。
1963年、手塚治虫による国産初・和製TVアニメ『鉄腕アトム』が放送開始。これは、無限の想像力を引き出すマンガの世界と物理的な限界が伴う実写・特撮の表現力の差を学べ、視聴者の感情移入のしやすさがはっきりと人氣の差に現れ、同じマンガ連載の『鉄腕アトム』を題材にしながらアニメ化・映像化に対する歴史的な失敗・成功事例を表す双璧に位置した出来事だったといえます。
 表現者の脳に化学変化を起こさせ無限に湧き出すイマジネーションをマンガとして描けば、時空を超え、物理的な限界を克服した世界が拓けます。
実写・特撮では、表現技術や手段が発展途上の科学の常であり、ヒトの脳の中で起こる化学変化の想像力を具現化するには乏しく限界を観たことになります。
21世紀、『鉄腕アトム』が実際に空を飛んでいないことにも飛躍します。
2つの『鉄腕アトム』以降、映画などの実写は、表現の限界、表現技術の新興状態において時代考証を含めた〔らしさ〕が表現活動において重要な要素であることを裏付け、制作への最大限の注意を促していると感じさせられます。
米国輸入アニメに追いつけ追い越せの精神で日本流のアニメを模索した手塚治虫の苦悩と苦肉の策で『鉄腕アトム』が制作されたことが以下の手塚治虫の言葉に現れていました。

「専門的だが、「3コマどり」というやりかたがあるそれは、なにをかくそう、制作費を節約するために苦肉の策ではじめたののだ。
「口パク」(キャラクターや人物は動かず口だけがパクパク動く表現方法)虫プロが言い出した言葉。
「バンク・システム」(同じ絵を何回も使いまわしするやり方)」(同、欄外資料)
テレビ放送開始時期に米国アニメが全盛だったことに対する劣等感と悔しさは、アニメ化前の実写の完成度の低さも手伝ってか手塚治虫を、国産初のアニメを制作するしかないと創作意欲を掻き立てられた原動力となっていたのです。
これらの和製アニメ技法は、以降のアニメに依然として残り続け、コンピュータのCG技術が開発、応用される技術革新がなされてもなお引き継がれていることに、手塚治虫がいかに偉大であったかを逆説証明していることになります。

(アニメの時代−2につづく)





















































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