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増子瑞穂さんの「キャスター・マッシー通信」連載 - 103(7/01/2012)

「ライトの自由学園明日館」

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●「食堂」メインフロア、奥が増築部分

 東京の副都心のひとつ、池袋駅から500メートルほど。近代建築の巨匠、フランク・ロイド・ライト設計の建物があります。自由学園明日館(みょうにちかん)。国の重要文化財に指定されています。池袋という、日芸生にとって比較的行きやすい場所にありながら、これまで行く機会が見当たらず。いや、近いからこそ足が向かなかったのか。日芸でフランク・ロイド・ライトを学んでから、20年。ようやく、自由学園明日館を実際に見てきました。

自由学園明日館は、1921年(大正10年)羽仁吉一、もと子夫妻によって設立された、子女教育のための学校です。羽仁もと子は、日本初の女性新聞記者であり、のちに夫、吉一とともに婦人誌、家庭之友を創刊(のちの婦人之友)。「家計簿」の概念を作った人物でもあります。
1921年1月、羽仁夫妻は帝国ホテル建設のため来日していたフランク・ロイド・ライトに、ライトのアシスタントだった遠藤新を介して学校の設計を依頼。その年の3月に工事が始まり、4月に入学式が行われるという、スピード開校でした。といっても、入学式のときに完成していた建物はほんの一部。あとは授業と平行して、徐々に出来上がっていったそうです。かつて西武線一つ目の駅だった上り屋敷駅から、武蔵野台地に建つ明日館が見えたそう。今では、上り屋敷駅も廃止されていますし、武蔵野台地にも住宅が立ち並び、電車から明日館の姿を見ることはできません。

初めて、自由学園明日館を見た印象は、とても小さい。中央の吹き抜け部分こそ高くそびえていますが、全体がなんだか低く感じられます。これは、フランク・ロイド・ライト設計の特徴、「プレーリースタイル(草原様式)」によるものです。ライトは大地と建物の融和を常に考えていました。建築物は、軒高を低くして水平線を強調。あたかもその土地から生えだし、大地に根づいているような印象で建てられています。明日館は、教室の床や廊下と、大地の高さのレベルが一緒です。より、大地に溶け込んだ印象を受けます。しかし、ライトの母国と違い、日本は湿度の高い国。床が地面の湿気を吸ってしまい、結果的に建物の寿命を縮めることに繋がってしまいました。また雨の日には、屋内に雨水が入り込んでしまうため、掃除が大変そうです。

全体は、吹き抜け部分を中心に左右対称に設計されています。この様式は日本建築が深く関わっているのではないかと考えられています。ライトがアメリカとカナダ以外で、作品を残した場所は日本だけ。1893年、シカゴ万国博覧会の日本パビリオンで「鳳凰殿」(ほうおうでん)を見て、日本の建築に興味を持ったとか。ライトと日本建築の初めての出会いでした。1905年、初めての海外渡航先でも日本を選んでいます。この旅はライトの建築人生に大きな影響を与え、明日館を設計するにあたっては、宇治平等院をモチーフに数日で図面を書き上げたといわれています。

「ルーム1921」
中を見てみましょう。まずは、西端の教室。1921年に完成した部屋という意味で、「ルーム1921」と名づけられています。1921年4月。ここで自由学園最初の入学式が行われました。開校時に完成していた建物というのがこのルーム1921です。26人の生徒全員が入れる教室をとりあえず完成させました。とはいえ、この教室ですら入学式のときは荒壁が残り、木部の塗装もされていませんでした。授業と平行してその後の工事は行われ、建築工事の過程を生徒に見せることも授業の一環としていたそうです。(ものはいいようですね…)

「食堂」
羽仁夫妻は、生徒が全員が集まって、手作りの温かい昼食を食べることは教育の基本だと考えていました。当時の学校建築としては珍しく、食堂が校舎の中心に設計されています。中央のメインフロアだけがライトの設計。のちに生徒数が増えたため、遠藤新がメインフロアの北と東と西に3つの小部屋を増築しました。冒頭の写真奥、M字型の窓があるのが増築部分。もとはメインフロアの窓を挟んで、テラスになっていました。この増築によって、不要になったメインフロアの窓枠は、小部屋の窓枠に再利用されています。
食堂で印象的なのが、V字型の吊子の照明です。大人だと、手が届くくらい低い位置に吊るされています。この吊子の照明、設計段階では計画されていませんでした。工事着工後、現場を見たライトが、少女達にとってこの天井は高すぎたと指摘。高さを感じさせないように低い位置に電球を配置するため、ライトがこの吊子をたった一日でデザインしたそうです。天井の高さ、設計段階で気づくべきことでしょうけれども、気づいてしまっていれば、この印象的な吊子の照明は生まれなかったのですね。

「食堂家具」
食堂におかれている家具は遠藤新のデザイン。制作費用は生徒達による演劇の収益から捻出されたとか。予算がなくコスト削減のための工夫は、スリット。テーブルも椅子も、2枚の板を朱色に塗られた込栓(こみせん)で繋いでいます。一枚板を使うと、コストがかかりすぎるからです。椅子は、背もたれと座面の木の幅が同じ。予算の制約があったからこそ、工夫して生まれたデザインです。椅子はスヌーピーの顔のようにも見え、ちょっとユーモラスです。
込栓部分の朱色は、ライトが好んで使ったため「ライトレッド」と呼ばれています。浮世絵の収集家でもあったライト。このライトレッドは、浮世絵に使われる朱肉の色から影響を受けているのでは、という見解もあります。

「ホール」
自由学園明日館の顔の部分です。外観も、まずこのホールの窓に目がいきます。一見ステンドグラスに見えるこの窓は、ただのガラス。高価なステンドグラスの代わりに、木製の窓枠や桟(さん)を幾何学的に配置して目をひく空間構成を実現しています。限られた工費で空間を充実させる、明日館の代表ともいえる窓です。この窓に切り取られた景色は、それだけで絵のよう。少女達の目にはどのように映ったのか。想像がふくらみます。
六角形をモチーフにした椅子は、ライトがデザインした帝国ホテルのピーコックチェアと似ていますが、実際に誰がいつデザインしたものなのかは、分かっていません。

少女達の学校生活のために、知恵をふりしぼったフランク・ロイド・ライト。「えっ」というような一面もあります。自由学園明日館の設計に携わる15年ほど前。当時ライトには妻と6人の子どもがいました。しかし母国アメリカで、とある設計依頼主の妻と不倫関係になり、ヨーロッパへ駆け落ちしてしまいます。しかも不倫相手はのちに、発狂した使用人に惨殺されてしまうという。なんとも穏やかではない人生です。精神的な痛手をうけ、スキャンダルにまみれ建築の依頼も激減した低迷期。そんな時に帝国ホテルの設計依頼が舞い込み、自由学園明日館の設計にも繋がるのです。ここでも日本との関わりが深いことがわかります。
男としては、かなりの困ったちゃんであるフランク・ロイド・ライト。確かに、見た目はいい男です。(ウィキペディアでライトを検索してみてください。)「自分の奥さんを紹介してはならない」とも囁かれたとか。だって、奥さんをとられちゃうから。建築に関しても、天井が高すぎることに気づいて、急遽一日で照明をデザインするとか、室内が暗すぎることにあとから気づき、図面にない窓を無理矢理開けちゃうとか、かなり無計画で人間くさい。でも、完成した建物は、繊細で愛らしくて温かい。近代建築の巨匠ではありますが、なんだか親近感すら湧きます。波瀾万丈の人生だったライト。これから様々なことを学ぶ少女達の姿は、凛として眩しかったことでしょう。
明日館開校時にライトが贈った言葉です。
「生徒はいかにも、校舎に咲いた花にも見えます。木も花も本来一つ。そのように、校舎も生徒もまた一つに」。

自由学園明日館。桜の季節には、夜桜のライトアップが素晴らしいそうです。また5月下旬にはバラも咲き誇ります。季節が変わるごとに、その表情を見たくなる。そんな建築物です。日芸生にとってアクセスしやすい場所にあるのですから、ぜひ学生のうちに…。

2012年6月30日
増子瑞穂
http://members3.jcom.home.ne.jp/massyweb/index2.htm

自由学園明日館サイト
http://www.jiyu.jp/




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●プレーリースタイルの建築物、池袋らしい背景がなんとも














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●「ルーム1921」最初に完成した教室

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●食堂、吊子の照明。一日でデザイン!?image
●遠藤新デザインの椅子とテーブル

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●明日館の顔、ホールの窓

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●ライトのデザインに切り取られた景色

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●6月中旬、遅咲きのバラが数本