『中村修二』
もう一人の変人–悔しさをバネに・・・

 余りにもドラマチックなノーベル賞受賞者田中耕一氏に対して青色発光ダイオードを発明した中村修二氏。私には興味深く、示唆されるものが多い人物である。

 氏は徳島大学大学院(電子工学)を修了、京都の大企業に内定していたが子供が生まれる事で地元(人口5万人の阿南市)の化学薬品メーカー日亜化学に就職する。配属された開発課スタッフはわずかに4名、LED素材となる結晶の開発を命令される。予算も無く、実験装置すらない殺風景な研究室で独りその装置ずくりから始める。来る日も来る日も、溶接作業の連続で「電子工学の修士を出て溶接職人か!」と、自分の人生はこのまま終わるのか、と。
悩みながらのも6~7年が経過、さすがにその溶接技術は神業とも言われるほどに熟達した。何事にも徹底する性格、職人肌でも有ったのだろう。その間には実験装置が吹き飛ぶような爆発、実験室の白煙が4、50m先までも噴出し周辺を驚かせた大事故も。が、その爆発も回を重ねると「ア!またか!マア~無事、生きてるだろう・・・」と驚かなくなった、と笑う。
片田舎の無名の零細企業、電話でのカタログ請求や計測装置の発注、問い合わせにも怪訝な顔をされ、まともに送られても来る事が無かった。会社の規模、場所、知名度などから判断する、いかにも日本らしい話しではある。その苦難の取り組みも10年、赤、紫ののダイオードの既製製品の商品化には成功した。しかし、その無名企業の売り込みも相手にもされず実績を求められ値下げを要求される事だけであった。社内、外まさに四面楚歌、屈辱と挫折感の日々であった。
しかし、10年の苦節に強固な意志力が培われたのだろう。
会社から与えられたテーマに取り組むだけでは絶対に駄目だ!と強く思うようになる。自らの意思によって青色発光ダイオード開発に取り組む事を決意し、上司に話すが、嘲笑され一蹴されてしまう。「こんな小さな、しかも研究者もいないところで何を云うんだ」と。
しかし、中村は屈しなかった。確信があった。悩みを社長に直訴した。
ところが、社長はあっさりと認めてくれたのである。
田舎の中小零細企業である、のんびりと平穏に生きたいと思う社員、自らを規定し与えられた仕事をほどほどにしてアフター5を楽しむ。多分、そんな社員が多い中で、中村の人一倍の努力を社長は見ていたのである。
毎朝7時に出社、他人と口をきかず、電話や会議にも出ない、ただ、ただ実験装置の改良、研究に没頭し、集中していた姿を・・・。
夜も日も無く働き、休むのは正月だけという、この型破りの社員は「変人」と呼ばれていたことも・・・。
1988年、フロリダ大学への留学を認められた1年間は「悔しさ」をバネにした次への充電の時期だったという。実力主義のアメリカでは博士号も無い、まして発表された論文も持たない研究者など相手にされないからである。
企業秘密で発表を禁じられる日本企業の事情など理解される由も無かった。「悔しかった」と述懐しその「悔しさをバネにした」のだとも言う。
帰国後、冷ややかな周辺の目を意識しながらも執念の実験を続けた。
’92年、微かだが青色を発光するダイオードが出来るとこれまでの投資を回収しろ、商品化するんだ!と責められる事に。が、会社のそんな圧力にも中村は妥協する事が無かった。完全な商品にするまではと・・・。
しかし、アメリカでより難しいと言われるレザー開発で青に近い青紫が開発された。勝負は終わった!と衝撃を受け、落胆したことも・・・。
しかし、その6ヶ月後、これまでの100倍もの高輝度の光を発するダイオードを完成、発表した。
その製品に素早く反応し、引き合いを寄せたのもアメリカであった。日本の反応は殆んど無かった、とも言う。
メジヤ―のスター並みの年俸を提示して誘う企業を含めて十余の大学・企業からのヘッドハンテングも実に素早いものであった。
積年の悔しさから開放されるその魅力、新たな研究環境を求めてカリフォニア大学を選び永住を決意する。勿論、日本のハンテングは0。
結果が見えない研究に注ぎ込む事に、当時の開発の常識で主流と言われた素材を敢えて避けたと言う非常識、は社内で、まして権威ある?学会で理解される筈は無かった。
「こんな田舎の零細企業が何オするんだ!」極めて常識的な判断、周辺の目は冷たかった。その「悔しさ」は「なにくそー、いまに見てろ!」と言う闘争心に、一途な研究に邁進させる動機ともなった。
優秀?な人材を持つ世界の大メーカー、大学研究機関が20年余の開発競争を繰り広げた青色発光ダイオードも無名の地方企業の一人の孤独な研究者の戦いに栄冠を与えて一応の終止符が打たれた。その青の組み合わせによって光の3原色がそろい1600万色もの色彩を可能とし、無限の用途を広げるものに。
運が良かったのだとも言える、しかし、その「運」を引き寄せる努力、集中力があって可能となるものである。勿論、「常識」と言う圧倒的なバリアーを打ち破る強靭な意志力が要求されるのである。
また、全く無為、無益と思えた装置作りのための溶接作業も、実は発明に役に立ったと述懐する。
失敗を繰り返す中で何かを感じ取る力「勘」を体得したのだと私は考えている。
論文を読み、理屈を理解したからとダイオード製作に取り組む者も多いのだが未だに造れないのだとも。
前にも述べた「失敗」が成功の「ヒラメキ」を誘導すると言う事でもある。
この発明・発想のプロセス、その全ては私達のデザインのプロセスと重なるものがあると思っている。
ノーベル賞サラリーマン田中耕一(43歳)のしなやかでマイペースの一徹さ。ノーベル賞に最も近いサラリーマン中村修二(48歳 現在は教授)の逆境に堪えた不撓不屈の強靭な精神力、一見対極と見られる二人の偉大な変人も発明者として共通するものがじつに多くデザインアプローチにも教えられ、示唆されるものが多い。
                             (’02/11・3記)
この稿を打ち込み終えた時、やれやれと新聞(02/11・5 読売)を開げた。とたんに「科学こそが創造的」という大見出し、ノーベル賞学者を囲むフオーラム予告の誌面だ。その「テーマが毎年創造についてである」ことは日本故であるとノーベル物理学賞江崎玲於奈氏、数年前のコメント。「アメリカでは当たり前のこと、問題にもなりません・・・」とも。江崎氏はソニーからIBMへ、その後、筑波大学、芝浦工大学長という初期の頭脳流失組みでもある。
「常識を覆す発見をなしとげる秘訣は?」の問いに、「一番重要な要素は運がいい事です」と、「確かに、訓練を積み、物事に集中し続ける努力は必要です。誰でも興味あることには情熱を傾けて取り組む。その時、発見が有るかどうかは運が左右するのです」と・・・。例の狂牛病に関わる「異常プリオン病」発見のスタンリー・プルシナー カリフォルニア大学教授の答えである。
確かに!「運」を引き寄せる精一杯の努力、挫折、苦悩が、そして、熱中してこそ初めて「運」をまつ事が出来る。
幸いな事にデザインは、その努力、それらのプロセスに習えば「運」を待つまでも無く「より良い答」を引き寄せる得る十分な条件がそろうものである・・・。

(’02/11・5追記)

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