緑がひときわ鮮やかに輝いて見える雨あがり、小枝の先にある数葉を見ながらスケッチブックに鉛筆を走らせる・・・。葉の揺らぎに風を感じ、そのリズムが心地よいのだ。旅先ではよく樹木や草花をスケッチする。或いはカメラを向けて、その彩り、造形の見事さ,感動をとどめておくことも・・・
ナポレオンの専属外科医の館であったというセーヌ河畔のホテルに数週間滞在したことがあった。
ルーブル美術館からの帰路、近くの店で大きな洋梨を2個買い求めた。部屋に飾られていた植物画、ヨーロッパではよく見かけるボタニカルアートに習って描いてみるつもりだったのだ。鉛筆を走らせ、カッターで二つ、三つに切りきざむと不規則ながら曲線が魅力的だった。さらに細かく観察してみるといくつかの種を包むような滑らかな淡い色の渦状の曲線、その形や構造が実に美しく、面白いものであった。
翌日にはまた落ち葉を数枚拾い観察・・・。それにしても、自然が創り育んだ森羅万象の造形物にこれほどの感動を覚えるのは一体何故だろうか?と鉛筆を止め素朴に考え込んでしまったものだ。
デザインを志した学生時代、教えて頂いた山脇巌教授にバウハウスの教育にも見たデッサンを、対象物を正確に観察することを学んだ。さしたる意味もわからなかった様に思う・・・。
身近にある「樹木」や「りんご」「みかん」「魚」や「動物」など等、自然に学んだものは実に多かった筈だ。特に当時としては数理的な正確さの造形物を教材として見せられることも多く、その仕組み、色や形状には驚かされ自然物にある法則性を学ぶことを意識させられたものであった。
デザインは自然に学ぶことを意識しながらも、人が創造するものとして、その生産的造形の可能性、人為的形状をその素朴な機械をとうして作り出すこと、考えるものであったように思う。
様々な与条件に応える構造、機能を具現化する形態は抽象化が要求され秩序ある形態をを探るものでもあった。
それからの40年余、実に様々な問題に、プロジェクトにも参加し、造形化にもチャレンジしデザインした。独創性を獲得するためには、その可能性を極力多く発想することを自らに課した。
曲がりなりにもそれらのプロセスには満足もしたし、人々に評価され、喜ばれたとも思っている。
しかし、自然に対峙しそれらの未熟を知ると、無力感も大きい。機能内容は異なるにしても自然の造形、その数億年、数千年をかけて創り上げられた「形」の妙に、「仕組み」の神秘性に感嘆し、その多様さにも恐れ入るからである。
私が、そんな少し謙虚な年代になったのかとも思う。
汲み尽きる事の無い自然の営みから生まれるその造形の魅力は、リアリズム芸術を支えキヤンバスを埋めて離さないテーマとして芸術家の前に立ち塞がっており、人々の感動を得ようとその技術を磨くのである。
人の本質に触れるものなのだろう、その自然を、樹木や草花を素材に「金器、銀器」の器を飾る職人の技術、その究極とも思える造形力にも感動している。
中世貴族のものであろうそれらは職人の技を数代、数百年にわたつて研ぎ澄まし営々と継承したものの結晶であることを思い知らされるのである。
強い光線の中に浮かび上がる器、魅せられた自然の造形物、その流麗な曲線、曲面を繋いで華美な造形、装飾様式の完成度の高さ見事さにもただ、ただ感動である。
ところで、不定形であり無秩序と見られていた自然の造形物もフランスの数学者べノア・マンデルブロの提唱するフラクタル理論によって、その秩序、法則性が明らかにされ科学的に解明されようともしている。
電脳と言われる時代、それでも自然は人類の母胎であり永遠のテーマとなるものである。

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