形象―継承の系譜(3)連載182

画家を志すもののメッカともいえるパリ。1889年のパリ万博のエッフエル塔(建設前から文化人の反対運動が、終了後には取り壊すことになっていたのだが・・・)は、いまも健在!芸術の都―エキサイティングな都市としてのシンボルに・・・。パリでは既にキュビズムやシュールレアリズムなどの新しい絵画様式が芽吹き始めていたのだが、我が国ではまだまだ「印象派的」な手法こそが西洋画であると指導されていたのだ。そのためにあまり評価されることもなかった留学生藤田嗣治などはそのギャップに衝撃をうけたのだという。その作風など、パリでは余りにも自由奔放だったのだ。これまでの手法や画材などのすべてを放棄してしまったのだという。新たな環境で自分らしさを探り、作風を極めて活躍した日本人画家として評価もされることに・・・。もちろん、日本人に限らず世界の各地から多彩な人々が集い、競い触発しあうクリエーティブな環境でもあったということだ。

ピカソが初めてこの地を訪れるのはバルセロナの美術学校を卒業し、それまでに描きためていた友人や知人のデッサンなど150点ほどを並べた居酒屋での個展をおえた1900年、19歳の時だ。余談になるが、あの『サグラダ・ファミリア』は、この地、バルセロナに着工して16~7年目になるのだろうか。A・ガウディーは48歳、教会の完成を夢見た日々を設計・施工作業を指導していた。美校生のピカソは生まれて間もないころからの少年期、どんな気持ちでこの建築を見ていたのだろかと想像して興味深い・・・。しかし、ガウディーはその完成を見ることもなく路面電車に轢かれ74歳(1926年)の生涯を閉じている。さらに、その40年後になる1966年の夏、私も初めて3ケ月間ヨーロッパを旅し、この地バルセロナも訪れていた。スペイン経済は疲弊して、完成のめどはついていないのだとも聞いていた。が、ひたすら作業は続けられ(1883年に着工―135年後の現在もまだ継続建設中―2029年に完成か?)、まだまだ全貌は見えないが素朴、壮大な教会建設に感動し、異様で個性的な造形のガウディー・パークやアパートなどにも驚きながらの見学だった。
ところで、美校を卒業し画家を目指すピカソもまた、エキサイティングな都市パリに魅せられていた。さまざまな画家がいて、作品がある。それらに触れ、作風をとらえ徹底的に研究分析したいと考えていたのだろう。さらに突き詰める試行錯誤も数えきれないほどに繰り返してもいた。ヒントをいかに自分の絵にするのか!画家としての個性、オリジナリテイを認めさせるかという特別なアプローチでもある。若いピカソにとっては、無限にある作風の、その可能性を独自に感じとり絞りこむこと。主張しあう画家たちの個性や特徴に「真似ぶ」ことが、極めて効率的で上達の早道でもあると考えてのことだろうが・・・。
とにかく、ピカソの作風はめまぐるしく変わっていく、気分次第、情動的に突き動かされる動機がピカソらしいスケッチだろうとも思う。

《美術史、研究家などが指摘するピカソの主な作風》
:青の時代 1901年~1904年 19歳、親友の自殺にショックをうける。鬱屈(うっくつ)した心   象、プロシア青を基調に盲人や娼婦、乞食など社会の底辺の人々に関心。現在の「青の時代」という言葉は、孤独で不安な青春時代を表す一般名詞に。
:ばら色の時代(1904年~1907年)恋人ができたこともあり、明るい色調のサーカスの芸人や家族、兄弟、少年・少女などを描く。
:アフリカ彫刻の時代(1907年~1908年)アフリカ彫刻に興味を持つ。人体なども基本的な点・線・面の幾何学形にとらえたキュビスム運動の端緒となった『アビニヨンの娘たち』。
:セザンヌ的キュビスムの時代1909年スペインに旅し、セザンヌに触発された風景画を描く。
:分析的キュビスムの時代1909年~1912年 対象を徹底的に分解・記号化し抽象に接近した。
:総合的キュビスムの時代1912年~1918年 装飾性と色彩の豊かさ、ロココ的キュビスムとも。このころ、新聞紙や壁紙をキャンバスに貼るコラージュを発明。バウハウスでのコラージュ作品は山脇巌教授に見せて戴いていた。
:新古典主義の時代1918年~1925年 妻オルガと息子パウロをモデルに量感のある母子像を描く
:シュールレアリスムの時代1925年~1936年 化け物のようなイメージ作品が多く、妻オルガとの不和を感情的に反映した作品。
:ゲルニカの時代1937年 ドイツがスペインのゲルニカ爆撃を非難する大作『ゲルニカ』やその習作(『泣く女』など)
:晩年の時代(1968年~1973年)油・水彩、クレヨン、カラーなど、激しい絵自画像、76歳からの『ラスメニーナス』58枚の連作なども・・・。

もちろん、具現化する技術力は十分にある。そのことが周辺の友人知人にすらも理解されないほどの変化を生み、衝撃的な絵を生み出してもいるのだ。
人の情動は意識的であり無意識的なものでもあるが、子供の稚拙な落書きのように心の赴くままに無心になって描くのだと言う。また、ピカソの躁鬱感――怒り、恐れ、喜び、悲しみ、苦悩、孤独、絶望、憂鬱さなどの心の表情を描いたものでもあるだろう。しかし、アンチテーゼとしての強い意識があって意図的にデフオルメされてもいるのだろう。
                            (2018・8・5記)
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メモ:
●「ようやく子どものような絵が描けるようになった。ここまで来るのにずいぶん時間がかかったものだ」と。「自分の信じていること、正しいと思うことに突き進むだけだ。人生、生きるということ自体が、新鮮な驚き、喜び、新しく開かれていく一瞬一瞬であり、それは好奇心というもの以上の感動なんだ!」とピカソ。
●「芸術は冒険であり、探検である。発見は探検の中から生まれる。冒険のないところからは決して発見はない」と、画家 猪熊弦一郎。
●あらゆる創作物はもちろんのこと、写真もほとんど他のメデアや作品から刺激や模倣の影響を受けて作られている。知らず知らずのうちに縛られている常識や固定観念を取り払えば、世界は新しいものとして立ち上がってくる。ある日あるところにいることが写真に携わる者の絶対条件である。(中略)生きとし生けるものの内でも、人間や動物にフオーカスしたものを選んだ理由は、数葉の写真に異様な自在さと言う野放しの闊達さを教えられたからです。少年や少女のような稚気を持った人たちのストレートな感覚は、寸マップ写真を撮るために必要な旅人の眼や異邦人のまなざしを持った写真家と同じ資質なのです。写真の持つ記録は、現実の記録と、写真家の人さし指から生まれたセンスの記録なのです。(以下略)立木義浩(「2018全日本読売写真クラブ展」総評 8・5読売新聞)
●シンプルであることは、複雑であることよりも難しい。ジョブズの発想やこだわりは引き算の美学にあるという。徹底的に無駄を排除し、単純にすることで真の意味や価値が見えてくるのだと言う。シンプルであることは、まさにジョブズの哲学でもある。
また、レオナルド・ダ・ビンチは「洗練を突きつめると簡潔になる」のだと。
●「いま、なんでピカソ・・・!」、いわれるまでもないと私自身が思ってもいることだが・・・。デザインをやろうと決め、とくにIDを考え、学ぼうとしていた頃には、おそらく真逆だろうとピカソ作品にはあまり関心がなかった。同じ対象を観察し描いても、しかし、私とは見えるものが違う、描いたものがまるで違うのだから・・・。ピカソは見たままを描くのではなく、自分の心でとらえた対象の本質をデフオルメした形に描いているのだと。しかし、自分の子供や気になる女性のデッサンは、見えたものを見えたように可愛く、美しく描いている。私と同じものが見えていたんだと安心したが・・・。
言うまでもないことだが、絵とデザインとでは結果に対する目的が違う。デザインは他者に見せようとするときは、それがここに「存在」せねばならないし、あるように描かれねばならない。何よりも、その情報を正確に伝えると言う意味が大きいということだ。

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