平成8年4月、デザイン学科として初めて新入生を迎え入れた日から早や7年、既に250名余の卒業生を送り出した事になります。
放送学科が昭和35年に設置されて以来、36年振り、デザイン系3コースが美術学科から分離、独立したのです。
大正10年に美術科が新設されてから75年目、幾多の変遷を経て「デザイン学科」になったと云う事でもあります。
戦前戦後、欧米に習って近代化を目指した我が国にとっては、直ぐに役に立ちそうにもない芸術教育などに寛容でなかったろう事も想像出来ます。そのルーツをたどる中で垣間見る事が出来ました。
かって要約したものを「略史」として付記しておきました。
しかし、いずれにしても、デザイン学科の先輩はOBの皆さんになります。
どうか後輩諸君をよろしく!
そして、芸術学部OB会にデザイン系3コース出身者とデザイン学科出身者の「デザイン部会」が承認されています。どうぞ交流してやって下さい・・・。
皆さんの所属する企業、部課の名称も多分、猫の目のように変化していることでしょう。
デザイン学科も時代の要請に応えた変容のカタチを一応とったと言う事でもあります。
「デザイン」は常に次代を目指す存在でも在るのです。
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デザイン学科のルーツ
「芸術学部史」によると、昭和14年(1939年)、この地、江古田にキヤンパスを移すと「宣伝芸術科」、「商工美術科」、「写真科」が新設されています。これまでの創作、演劇、美術、音楽、映画と併せると8科。
それらの、夫々のカリキュラムを見ると「宣伝美術科」が「コミニケーシヨンデザイン」、「商工美術科」が「インダストリアルデザイン」であったと言えるようです。
しかし、その後、美術学科に統合されている・・・。
その詳しい経緯については知る由も無い。
ただ、その当事者であったろう山脇先生にそのところも聞いておきたかったことだ。
想像するに「宣伝美術」も「商工美術」も「美術」であると言う解釈であったのでしょう。
まだまだ、未分化の混沌とした時代でもあったからです。
しかし今は、「美術学科の出身です」と言うと、「あぁ、絵を描いておられるのですか?」と言われる。
「いいえ、デザインを専攻しています・・・」、「え!・・・ああ、そうですかァ・・・・・」、「で、デザインは何を?・・・」と、続くといささかうんざり・・・・。
そんな、ちぐはぐな会話から始めなければならないのです。
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「私共の『デザイン』は様々な曲析を経たが現在も『美術学科』の一部として存在している。しかし、『美術学科』という名称は純粋美術、日本画、絵画、彫刻、工芸などと解釈され、デザインの目標とする方向とは大きな差異を感ずるものとなってきているのです。
勿論、これまでにも学科として数回の検討を繰り返したが『絵画』、『彫刻』、『ビジュアルコミニケーシヨンデザイン』、『インダストリアルデザイン』、『住空間デザイン』各コースを表し共有し得る適切な名称を見出せず今日に至っている。」
1983年(昭和58年)に求められた「デザイン学会・機関誌」に「日大のデザイン教育、デザイン用語を問われたときの拙文の一節です。周辺にあるジレンマ、私の心情を吐露したものになっているものです。
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戦後の社会的混乱の中で、新しい時代を迎えるたびに社会の構造が鮮明になります。
勿論、大学教育としての「デザイン」も徐々に其のをなし、生活の中に浸透してきた時代でした。
産業近代化のはじめにはその行為を「美術」や「意匠」と呼び、やがて、「デザイン」に変わった・・・。
勿論、その意味内容も「外的形状問題」から、その「形状を成らしめる内的な問題」へ、そして、その「モノが存在する空間」、「科学性と企てること」へと、その関心は移つり拡大解釈され急激に変化してもいたのです。
目覚しい我が国の経済成長に併せ、「デザイン」もまた、確りと先端工業化社会の一員として浸透していたのです。
美術を母胎として生まれたデザインも、その内容が異なり、明らかに異なる目標に向い始めていたのです。
デザイン=美術としては理解され対応され難くなっていました。
進学、就職問題など様々な面から大きなハンデイにもなって来たのです。
デザイン系3専攻にとっては、旧態然とした美術教育として受け止められかねない状況にもなって来たからです。
国公私立にも競合新設大学が急増し、デザインとしてのカリキュラムの整備が急ピッチに進み、情報社会の未来を意識させられたものでした。
デザイン系3コースにとっては死活問題でもあり、危機感を募らせたものでした。
それらの問題は美術学科として受け止めてもらい、学科の懸案事項としてよく検討したものです。
「時には、徹底的に検討しましよう!」と、旅館に教員全員が泊まり込み夜を徹して話し合った事も・・・。
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バウハウスシステムのデザイン教育
世界にその影響力をもち、近代デザインの基点ともなったバウハウス(ドイツ)。そのバウハウス留学から帰国した山脇巌(建築)によって1938年バウハウスの教育システムが「商工美術科」に導入された。
その後、美術学科主任教授として長らく教壇に立たれていました。
その後を柳原義達(彫刻)主任教授、更に中谷貞彦(絵画)主任教授に引き継がれて来ました。
その後を受けたのが私(インダストリアルデザイン)。
当時、大竹徹学部長を引き継がれた八木信忠学部長との話の中で初めてご理解、ご決断を頂いたものでした。
学科問題の検討を始めて15年目の事でした。
まさにバブルに有頂天・・・。「理想」は高く、「夢」は大きく、世を挙げて「21世紀はデザインの時代」として持て囃された時代から、バブルが崩壊し不況感真っ只中へと状況は様変わりしていました。
1996年(平成8年)、美術学科からデザイン系3コースを分離、新設と言う形で8番目の学科は誕生したのです。難産でした。
その前年、を受けて発表を本部で行いました。その折、新聞、雑誌等の関係者を前に敢えて「日本大学(14学部)83番目の学科である」とも、申し添えたことを思い出します。
デザインは人間生活の全てに関わり、或は全てを基盤として成立すると言えるからです。
デザインの総合性、デザインは本学のような総合大学にあることをメリットとして随分早い時代からくから標榜してもいたからです。
新学科としての目標は1-情報化への対応 2-現実社会の動きを機動的にカリキュラムに反映させる 3-国際化への対応 4-その他などとしました。
デザイン学科の主任と併せてこれまでどうり美術学科の主任も、というご意見も頂きましたがせっかくの分離です、美術として新しい主任を、と固辞し産声をあげた学科運営に当りました。
美術学科定員120名を2分化した60名、デザイン学科にとっては10名強の定員減になる人数でした。
分離独立は教員、教育内容の一層の充実、一方で適正定員増を目論んだものでもあったのです。
しかし、「都区内の定員増は認めない」という国の方針は動かないものでした。かろうじて許された留学生枠20名を加えた80名が新学科の定員となったのです。
さらに、バブル時代、デザインは「21世紀のキワード」として企画誘致されたデザイン系大学、学部、学科が全国的に乱立したのです。
学科新設は時代の激しい変化、逆風の中の船出でもあったのです。
しかし、多くがこの分野を有望であると見ており、大学を誘致設立したものです。
ライバルに負けない努力、次代の要請に対応を怠らないこともまた生き残りを掛けた学科としての使命であるとも言えましょう。
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「夢」を語り合える環境作り・・・・
長引く不況、閉塞感が社会的な問題として噴出し、弱体を曝け出しています。
更に少子、高齢化が追い討ちを掛け、教育環境はあらゆる意味で激変しています。
最近の青少年は「日本の将来は暗い」、「努力しても無駄」とも感じてもいるようです。これでは、学ぶ気にはならない、でしょう。
未来を夢見てこそ、学ぶ意味、その志を持つことが出来るから・・・。
我が国はいま、この閉塞間を打開する為に高等教育の整備充実を計り、次の発展を目指した様々な施策をも講じています。
大学も、学部もその渦中にあります。
しかし、この時代、まさに「その夢を見、語るに相応しい『芸術学部』である」こと・・・。
その「夢」を、学生自らの意志を持って達成する、そんな教育環境が作り上げられねばならない。
若い志を覚醒させ、促すための環境造りが今後の課題でもあると思います。
学部は今、再選された一ノ瀬学部長を中心に、8学科一丸となってそれらの問題に当っています。
そんな次代へのエネルギーを感じてもいます。
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学科とほぼ同時に進められた大学院、専攻科増設は美術学科を基礎学科とするもので、その分野は絵画、版画、彫刻、美術理論そして、視覚デザイン、インダストリアルデザイン、建築デザイン、デザイン理論などと広く、それらを表す名称にも苦慮した。
「造形」とし、学部の「芸術」を合わせた「造形芸術専攻」としたのは苦肉のこと。
異分野3コースを表すために「デザイン学科」と、一般的な名称をとらざるを得なかったことと同じ問題を含んで理解されがたい部分もある。
デザイン学科主任は私の後を深谷光美教授(建築デザイン)、そして現在、中島安貴輝教授(視覚デザイン)へと順調に引き継がれ、より良い学科、コースの運営にご努力頂いています。
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この稿は芸術学部OB会福岡支部の求めに応じて、その機関紙に執筆したもの。
更に加筆しコラム?としてID系OBの皆さんにご報告します。
併せて、付記した「デザイン学科略史」は、1983年、デザイン学会の「デザインに関わる用語」を「芸術学部50年史」から要点のみを抜粋したもの。
完全な「デザイン学科史」ではないことをお断りしておきます。
ちなみに、「50年史」の後に「70年史」、一昨年には「80年史」を刊行。
勿論、用語は旧態然としているがその精神、動機など、またカリキュラムは極めて興味深いものがある。
改めて、その変遷、苦心の後が覗えて面白い・・・。
温故知新!折を見てご覧下さい。
(2003/8・10 記)
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付記:デザイン学科略史(芸術学部50年史から)
1921(大10)・3・28日本大学に「美術科」を新設。
「美学科」は我が国に於ける斬新な企にして、之により、全学生の審美的気風を助長し、円満なる人格に到達せんことを目的とす。(出典、日本大学芸術学部50年史、新設理由)
我が国、芸苑は行き詰まりになって、生命のある新芸術の花はまさに開かねばならない・・・。然るに現代社会を見ますに、物質主義の横行は、普遍たるべき芸術に特定階級化して其の光輝を覆うています。且、芸術の天才も、学ぶに其の処を与えられませんで、物質文明の脚下に踏み躙られています。従って民衆と芸術とは全く隔離せられて、生活の芸術化は到底出来ない有様に至りました。
大学に「美術科」を新設し、芸術大学の実を有せしめ、新芸術の創生を期し、天才の出現、評論家の出生、芸術の民衆化等に於て、新文化の創造に参与せん・・・。(芸術大学創設の趣旨より)
1924(大13)・3・31「美学科」を「文学芸術専攻」と改正する。
他に哲学、倫理学、教育学、心理学、国文学、漢文学の各専攻。
3ヵ年の経験にかんがみて、「美学科」の理論偏重教育では、芸術向学青年の心を把握することが出来ず・・・。単なる理論よりも、実技に重点をおくのが当然であろう。(出典1)
1926(大15)・1・20 「文学芸術専攻」を改め、「外国文学芸術専攻」とする。
文学志望者を英文学により指導し、これと、美術、音楽、演劇と組み合わせたもの。
1927(昭2)・5・12「外国文学芸術専攻」を分離、「芸術学」と「英文学専攻」とする。
専攻科名のみでは、内容がなんであるか判然としないため。
1929(昭4)・5・2 日本に初めての「綜合芸術大学」・日大破天荒の試み(国民新聞・朝日新聞)
1939(昭14)・4 「芸術科」江古田へ移転
専門部は「宣伝芸術科」、「商工美術科」、「写真科」を新設
芸術家専門部は「創作」、「演劇」、「美術」、「音楽」、「映画」に加えて、上記三科を増設
「宣伝芸術科」は、「産業宣伝」志望と「文化宣伝」志望の二つの分かれ、前者は実業方面に、後者は国策の線に沿って、大陸進出と主眼とした宣撫、宣伝、諜報教育を内容とし、ドイツのシュラダミューラー博士の諜報学校に擬したものであった。
「商工美術科」は今回の新設科の中でも最も特色を有するものとし、アメリカ、ドイツ、などにおける「新バウハウス」の新しいシステムに対し、本学、芸術科が独特の新味を加えたもので芸術の実用化、普及を目的とし、実用美と、大量生産を計ったところに意味がある。
その様な意欲のもとに「木工」、「竹工」、「ガラス工芸」など80種にも及ぶ製作を対象にして、特に戦傷病兵を入学せしめ、これ等を新しい部門への職場転換に道を開拓しようと策したものであった。(出典1)
宣伝美術科実習
「宣伝文作成」、「宣伝演劇」、「宣伝映画」、「宣伝意匠計画」等が1~3学年にかけておこなわれる。他に「宣伝心理」、「文化統計実習」、「大陸文化知識」、「諜報学」などの講座が見られる。
商工美術科実習
「美的形式論」、「風俗文化史」、「世界工芸様式」、「世界工業様式」などが見られ。一般意匠計画として、「建築意匠計画」、「造園風致意匠計画」、「都市意匠計画」、「展示意匠計画」、「劇場意匠計画」、「商品意匠計画」、「宣伝意匠計画」、「工芸意匠計画」、「船車意匠計画」がある。又、具体的な実習としては「木材工芸」、「竹材工芸」、「ガラス工芸」、「彫刻工芸」がある。(出典1、専門部芸術科・学科課程)
江古田校舎の竣工と共に、大いに内容に、外観に、面目を新たにする意味において、芸術科の紋章を制定。
横長の楕円は運行を現して芸術の時間面を、中央の円形は位置をあらわして芸術の空間面を象徴したもので、天体の運行面からのヒントである。紋章の全体から受ける印象が、日本大学の日に、又、全体の感じが眼を連想せしめる。けだし、目は人体の中心であり、英智のシンボル・・・(図案作・講師 海老原喜之助)
最近、日本帝国の飛躍的進展は物質文明の異常な発達に基因する・・・。即ち物質文明の基調をなし、遂に物質文明に優越するものは精神文化の顕現である。・・・芸術に俟って豊饒なる精神力を養い、弾力性と飛躍性を有せずんば、断じて新時代が処すべき国家発展の機能は、全きを期しがたいのである。
・・・あらゆる芸術的分野を余す所なく網羅し、各科の連繋総合を計り、・・・興亜文運の進展に資せんとするものである。(出典1 芸術科設立の趣旨 昭15・4)
戦運急を告ぐる秋、芸術などとは閑人の閑、葛藤に過ぎぬ、とうそぶく人あらば、時代錯誤も甚だしい。長期建設とは、第一線に勇猛果敢の師進め、第二線に経済、政治、外交が出動し、第三線に待機の姿勢をとる文化一般が発動されて、・・・硝煙なまなましき荒地にさんらんたる文化の雨を注いでこそ、いんいんなる平和の暁鐘に応う・・・。(出典1 芸術の役割)
1944(昭19)・1 専門部「芸術科」を「戦技科(仮称)」と改称す。「日本大学板橋工科」と通称。本芸術科がすでに教育の基調とする国防芸術を直接戦力の増強に資せんが為、各科特有の技術を戦力的に発展・・・(出典1 名称変更の理由)
1946(昭21)・4 再び「芸術科」とし復活。専門部「芸術科」、「写真」、「映画」、「文芸科」、「音楽科」に新たに「造形科」を設置。
美術と工芸技術の原理を教え、陶工、木材、その他諸材料の研究、実習を積ませ、生活と関係の深い、しかも芸術味の豊かな生産工芸の設計者を作り出すため、原型制作をも修得させようとしている。(出典1 日本大学芸術学園学生募集要項)
1948(昭24)・4 日本大学が新制大学となり、「芸術科」は「芸術学部」となる。
従来、文学部に従属していたものが、完全独立と云う事で、委員会において議論沸騰した。
芸術と云う技能的教育は、専門学校で事足りる。学問の領域外のものである。
わが学部は、芸術の種種の分野を総合的に、また専門的に指導する「新制芸術大学」である。
・・・芸術教育は専門分野の学理や、技術を修得させるだけでは不十分、関連をもって総合的な研究と指導とが必要・・・。(出典1 学部入学案内 昭25・4)
「美術学科」は、一般的教養科目に併せ、デッサンの修得に力・・・。三年からは各専門に分れ、絵画、彫刻、理論またはデザイナー志望に総合的な研究の途が開かれている。
B、歴史部門 「芸術史学」、「芸術思潮史」、「住宅史」、「工芸史」、「写真史」 他
C,特殊研究部門 「美術作品研究」、「写真作品研究」、「鑑賞批評論」、「新聞雑誌研究」、「視覚教育」
D,技術部門 「美術技巧論」、「意的構成研究」、「写真特殊技術論」、「映画特殊技術論」、「ジャーナリズム論」、「素描」、「装図」、「図案」、「展示及び意匠計画」、「ポートレート技術」、「装置」、「造型実習」、他 新制大学になった時のこの授業科目をもって基本的には今日に至っている。
1956(昭31)・4・1 「美術学科」デザインコースは「ビジュアル・コミュニケーション」と「プロダクト・フォームの二つの内容をもつ。
「ビジュアル・コミュニケーション」、「コマーシャル・コミュニケーション」、「プロダクト・フォーム」、「建築・インテリア実習」等が行われる。
1969(昭44)・4・1デザインコースの内容は、「ビジュアル・コミュニケーション」と、「インダストリアル・デザイン」、「インテリア・デザイン」(テキスタイル・デザインも含む)の各カリキュラムを開放、多様な選択が可能な新選択の方法(二年次以上専攻)
1973(昭48)・4・1「デザインをビジュアル・コミュニケーションデザイン」、「インダストリアル・デザイン=工業デザイン」、「住空間デザイン=リビングスペース・デザイン」の各コースに再び分離。
各コースの特自性を強調。「アド・アート」、「パッケージ・pop」、「コマーシャル・フォト」、「視覚デザイン方法論」、「レタリングタイポグラフィー」、「環境論」、「デザインメソッド」、「計画概論」、「プロダクト・プランニング」、「インダストリアル・デザイン」、「インテリア・デザイン」等の各実習が行われる。
1983(昭58)現在 その延長上に、「人間工学」、「工業デザイン概論」等、各コース毎の補充があり、定員制がある。
「あとがき――この稿は、本学における変遷の中で、を求められたものであった。しかし、結果は、私共の大学の特殊性にもよろうか、これが、とはっきりデザインの用語を示すことは出来なかったように思う。
しかし、デザインと断定出来ないのは、そこに本質的な問題があり、デザインと云うものが常に時代のカオスの中で要求され、意味付けられてきたからだとも云える。あるいは、今日の如く、デザインが意味を広く、そして人間生活の全てに関わる文化的な行為であると理解すると、その輪郭はにわかに拡大され、複雑に隣接領域と重なり合ってくることもある。それらの名称、用語は、デザインと不可分の意味を内包しているからである。
いずれにしても、「明治憲法発布」と時を同じく「日本法律学校」として設立されったものへ、美術や映画、音楽などと云う、およそ異質とも見えるものを根付かせようとし、大学として高等教育を目指したものであったから、文部当局や周辺、まして大学内部の理事者にすら理解されなかった様である。
「哲学の一分科ならばとに角、美術や音楽、まして映画や写真等と云う、実技をもって必須課程とするものなど専門学校で十分である」と廃科案、三崎町本部からの追放、酷評と弾圧、戦時下の教育不在、戦後社会の消滅的な中をたどる過程は、まさに、我が国における芸術教育、そしてデザイン教育の開拓史と重なって興味あるものであった。
今日、そしてせいぜい明日のことで手一杯となり、およそ振り返ることのなかった過去を出典1とした「日本大学芸術学部50年史」(昭47年11月10日刊)に、デザインコースの源流を求めた」
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