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『デザインの作法』(03/15/2003)

 園 勲夫 < 画 家 >(S43年度卒)

デザインを変えるのは

自動車デザインを永くやってきて、この仕事から遠ざかると変化の速さに驚かされる。
変化とは自動車をめぐる技術が進み、車が新しくなって行くことである。環境の変化で自然派生的に変わって行くものかと思っていたらとんでもない。高性能化、衝突安全、燃料消費軽減などのようにある要因があっての変化の例はあるが、変化を加速する原動力は何かと考えてみると愕然とするものがある。
これは人が変えているのである。これを言い換えれば、企業が経営の一環として、業績を伸ばすために新しい製品を出して購買意欲をかきたてようとの目的から、モデルチェンジ計画をする。
企業のトップは具体的成果をみて経営の立場で判断する。言い換えるとビジネスとして捉えている。
具体的に当事者として走り出すのはそれを担当するのはデザイナーである。形を提案しているのは担当者であって、このビジネスの目的に沿うように形を生み出している。こうしてみるとビジネスの営みの、これにかかわる人がそれぞれの目的意識のもとに、つまり営利目的が発端の変化である。
当事者にとってアウトプットを要求されることは決して楽なことではない。クリエイティブな仕事は楽なところからは生まれない。先ず現状を否定するところから始まる。たとえば、今の車がそんなに悪くないと思っていても。また、見飽きるほど長期に渡って市場に転がっていたものでなくとも、まずは、デザイナーはこれを古臭くてくだらない代物と烙印を押す。ここまでは罪にはならない。ここから先が問題である。形を変えるところから始まる。とりあえず見た目を変える。
丸いものを四角にしたりまっすぐなものを斜めにしたり、一つのものを二つに分けたり、あるいは分かれているものを一つにまとめたり形を変えるだけがデザインではない。
デザイナーは変えることが役割と強要される。メーカーに勤めていればこれは避けられない。そうであるならせめてスマートにそれなりに意味のある仕事をして欲しい。

やっていいこと悪いこと

変えるには変えるなりの意味と意義がある。それには作法がある。
作法とはやっていいこと悪いことを見分ける能力のことだ。人から言われるのでなく自分で判断することで、こんなことは出来ないよ、こんなことをしたら恥ずかしいよと自分の行動を律してきた。これが作法である。
このやって悪いことの代表例がコピーである。つまり他人の作ったものの真似である。これはどんな時代にも許されることではない。
自分でも後ろめたいと感じていても、何か理由を見つけてそれを押し通そうとする。その理由とは多くの場合自分勝手なもので、時間がないとか、コピーから始まったものでもその結果、コピーのものからの離れ度合いで自分なりに納得する。
後ろめたさを感じながらも、ずるずると自問自答などしている時、他人から指摘されたりすると猛然と反論したり、言い訳を並べ正当化する。それでも、一時過ぎてすこし落ち着くと、素直に直し始めたりする。
当人の気持ちを配慮して、あからさまには言わなくてもそれとなく雰囲気で諭されるような時もある。このような時は後でこっそりと直す時もある。それでも恥ずかしい思いは容易には消えない。これでも良い。とにかく大事な作法は守られたのだから。
もうひとつの作法でデザインをする上で良い悪いのルールみたいなものがある。これは先ほどのモラルとか、その人の尊厳にかかわるものではなく、行動、動作のしつけ、立ち振る舞いや、テーブルマナーと同じ行動の規範のようなものであり、美的な基準のようなものである。これをデザインの作法とよぶ。
かつてはこの作法がかなりうるさかった。例を挙げると、縦横の基調の中で形を決めるのが基本である。斜めの線や湾曲したラインは嫌われた。たまにはそのような線を使っても基調は水平緯線の範囲に収めることにとどまっていた。
シンメトリーにもこだわっていた。
面の処理は素直な面が好まれた。めったにねじれた面やうねった様な面を使わない。これは面を構成する線にハイライトが合わない。あるいはうねった面は何か生物的でクルマには不快なものとして極端に避けてきた。これが作法として守られてきた。

作法は変わる

この作法は、形を作る上の決まりごとであり、これに則っている方が美しいとされているもので、この美しさの基準は時代によって変わってきた。さらにこれも許容範囲があってこの範囲の幅が時代によってかなり変わってきた。
今の時代はこの作法はかなり緩くなり自由にやっていると思われる。
デザイン表現の自由度も同じように向上してきた。材料の変化、技術の向上、CADのアシストもあって微妙な面の表現が可能になり、色や形の自由度、表現力も向上し自由闊達にデザインされたものが見られる。
この作法は時代によって随分人の捉え方が変わるものと考えられる。かつては否定されたものが今は良いといわれる。受け取る側も変わるようだ。以前は良くないと否定されたものが最近はそうでもないと感じたりする。しばらく時間がたつと自分の見方の変化に驚くことがある。
この傾向はここ最近特に顕著であって、私が退職した頃と比べデザインの幅は随分広がっている。こんなに早く変化するとは考えられなかった。

作法を変えた者

この変化の早さは誰がもたらしたものか。これこそがすなわち、デザイナーである。デザイナーは表現力のツールを持ち、チャンスを与えられ、業績向上をもたらすものと周りの期待を集め、それなりの物資両面のアシストを貰い優遇されている。すこしひねくれた見方をすると、デザイナーは誉めておだてて使えばどんどんアウトプットを出す。

作法を守れないもの

昨今のデザインの氾濫を見ているとこの作法を変えこれでもかこれでもかと、かなりのところまで許される。何をしても良いルール無視の状態である。
このような状態でははめをはずしてしまい、良い悪いの判断を鈍らせてしまうようだ。
ルール無視の形作りが本来やってはいけないことまでやってしまう。つまり、先に書いた、「やってわるいこと」の領域に踏み込んでいる時がある。
言い換えれば、デザインのコピーを平然とやっている。
形そのものの真似はさすがに避けているが、その形を作るときデザイナーはなにかを意識して、それから巧妙に離れた形を作りそれを自己のオリジナルとするような醜悪さが見受けられる。
後進国に見られるコピー商品ではないけれど、作った形の背後に何かぼんやりと思い浮かぶ別の車、すなわちデザイナーの意識を支配していた背後霊のようなものを感じさせる時がある。これはもうコピーと同じだ。精神的堕落さの度合いはコピーをすることと同じだ。器用に小細工で変えてオリジナルと言いぬけるところがよりあさましい。これだけはやめてもらいたい。
町を歩いているとこんなクルマが見受けられる。これにお金を払って買って乗っている人がサモシク見えるが、これを創った人はどんな顔で仕事を続けているのだろうと思ってしまう。無作法ものと言うより破門にして追放されるべきだ。

そろそろ作法破りもほどほどに、変わり映えを出すことだけに遮二無二にこだわらなくても、上品にほどよく控えめな、車を見ていてなんとなく背後にその車の家柄、伝統、気品を感じさせるような、そんな車があっても良いのではないかと考える。



先月号でご紹介いただきました私のホームページの更新をしました。是非ご覧の上ご意見をいただければと思います。

http://homepage3.nifty.com./i-sono/

園 勲夫:IsaoSono <i.sono@nifty.com>